google.com, pub-8944455872984568, DIRECT, f08c47fec0942fa0

いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語12】🪷座主流し①②〈ざすながし〉〜人望厚く優れた叡山 天台座主 明雲大僧正を側近の悪口で流刑って酷すぎ😾後白河法皇もお西光法師に唆されたとはいえ 世は理不尽なことよby🐈

平家物語23 第2巻 座主流し①〈ざすながし〉】

治承元年五月五日、叡山の座主、明雲《めいうん》大僧正は、

宮中の出入りを差しとめられた。

同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、

如意輪観音《にょいりんかんのん》の本尊も取上げられた。

更に検非違使庁《けびいしのちょう》を通じて、

神輿を振り上げて、

都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。

 こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、

先の京の大火事に原因と理由があったろうが、

もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光《さいこう》法師が、

あることないこと、山門の不利になることばかりを、

後白河法皇に告げ口したためであった。

そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。

唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、

早やばやと、天台座主《てんだいざす》を辞任してしまった。

変って、鳥羽天皇第七皇子、覚快《かくかい》法親王が、

天台座主となった。

 

その同じ日に明雲は、前座主の職を取上げられた上に、

監視までつけられ、水さえもろくろくのまされず、

まるで罪人扱いであった。

十八日には、この明雲の処遇問題に就ての会議が開かれた。

 誰もが、法皇の前をはばかって、

これという意見を出す者がなかったが、

一人、左大弁宰相《さだいべんのさいしょう》の

藤原長方《ながかた》がひざをのり出し、

「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、

 流罪ということになっている様でございますが、

 とにかく、前座主、明雲大僧正は、

 他の者とは事変り、その学問の深さ、

 天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、

 行ないは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。

 その上、我々にとっては、お経の師でもあり、

 高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。

 これ程の人を流罪にする事は、

 決して穏便な事ではござりません。

 何卒、

 もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」

と、苦々しげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、

恐るる色もなく述べたてた。

一座の者も誰一人反対する者はなく、

我も我もと賛成したのだが、

しかし、法皇のお憤《いきどお》りは、

寵臣から焚きつけられているだけに根深いものがあり、

誰一人法皇の心を柔らげる事ができなかった。

清盛も、

何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、

風邪《かぜ》気だからと体のいい玄関払いを喰らう始末で、

この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。

 

ここに前代未聞の座主の流罪が決ったのである。

明雲大僧正は、僧籍をとりあげられ、俗人の扱いをうけ、

大納言大夫 藤井松枝《ふじいのまつえだ》という俗名をつけられ、

伊豆国《いずのくに》へ流される事になった。

🪷🎼深淵の穹窿 written by K’z Art Storage

 

【座主流し②】

この明雲大僧正は、

久我大納言顕通《こがのだいなごんあきみち》の子で、

仁安《にんあん》元年座主となり、

当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、

上からも下からも、尊敬されていた人だったが、

ある時、陰陽師《おんようし》の安倍泰親《あべのやすちか》が、

「これ程、智識のある人にしては不思議だが、

 明雲の名は、上に日月、下に雲と、

 行末の思いやられるお名前だ」

といったことがあったが、今になってみると、

その言葉もある程度うなずけるものがある。

 

二十一日は、座主の京都追放の日であった。

執行役人に追い立てられながら、

座主は泣くなく京をあとにして、

一先ず、一切経谷にある草庵に入った。

二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。

さすがに日頃住みなれた都を離れ、

恐らくは二度と、

帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、

様々の想念が渦巻いていた。

 一行は、夜あけがた京都を立ち、

やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。

そこからは、

比叡の山の青葉若葉の萌えたつような色どりの中に

文殊楼《もんじゅろう》の軒端《のきば》が白々とみえる。

朝夕なれ親しんできた、その姿をみると、

座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、

それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。

憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、

粟津《あわづ》まで送ってきた。

しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、

そこで別れを告げることにした。

澄憲の気持に感激した座主は、

年来、心中にあった一心三観の教義

——これは釈迦相伝の大事なもの——を伝授された。

もちろん、

澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。

 

山門ではこの度の沙汰は不満どころか、

全山、憤慨の極にあった。

それも西光法師親子の告げ口のせいだとばかり、

西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。

いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、

山門では、大会議が開かれていた。

「初代|義真《ぎしん》より今日まで五十五代、

 座主が流罪になるなどという不法は行われなかった。

 いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、

 栄えある当山をないがしろにするやり方だ。

 即刻座主をうばい返そう」

勢の良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、

われもわれもと、わめき声をあげて、

東坂本にかけ下りてきたのである。

ここで再び会議が開かれた。

「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、

 座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、

 役人がついている以上、

 果して無事に取り返せるかどうかが心配だ。

 それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。

 もし我々を助けて、無事に座主を取戻せるものなら、

 先ずここでその兆《しるし》をみせて頂こう」

という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。

すると、山門に使われている鶴丸《つるまる》という少年が、

急に体中から汗をふき出して苦しみ始めた。

「私に十禅師権現《じゅうぜんじごんげん》がのり移ったのです。

 どんな事があっても当山の座主を他国へ追いやる事は許せません。

 そんな事になっては、

 私がこのふもとに神として祭られていても、

 何の意味もない事です」

左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。

この不思議さに、

「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、

 私共が証拠の品を渡すから、元の持主に返してみるがいい」

と老僧四、五百人の手にした数珠《じゅず》を、

床の上に投げあげた。

少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持主に返した。

ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、

座主を取り戻す決意を新たにしたのである。

「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。

 命をかけても、座主を連れ戻そう」

海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、

雲霞《うんか》の如き衆徒の群に肝《きも》をつぶした護送役人は、

座主をうっちゃって、命からがら逃げ出してしまった。

🪷🎼活殺自在 written by ilodolly

🙇座主の読み方は〈ざす〉です。ざしゅと間違えているところがあります。訂正いたします🙇

少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋 ぜひご覧ください🪷 https://syounagon.jimdosite.com