【平家物語23 第2巻 座主流し①〈ざすながし〉】
治承元年五月五日、叡山の座主、明雲《めいうん》大僧正は、
宮中の出入りを差しとめられた。
同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、
如意輪観音《にょいりんかんのん》の本尊も取上げられた。
更に検非違使庁《けびいしのちょう》を通じて、
神輿を振り上げて、
都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。
こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、
先の京の大火事に原因と理由があったろうが、
もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光《さいこう》法師が、
あることないこと、山門の不利になることばかりを、
後白河法皇に告げ口したためであった。
そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。
唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、
早やばやと、天台座主《てんだいざす》を辞任してしまった。
天台座主となった。
その同じ日に明雲は、前座主の職を取上げられた上に、
監視までつけられ、水さえもろくろくのまされず、
まるで罪人扱いであった。
十八日には、この明雲の処遇問題に就ての会議が開かれた。
誰もが、法皇の前をはばかって、
これという意見を出す者がなかったが、
一人、左大弁宰相《さだいべんのさいしょう》の
藤原長方《ながかた》がひざをのり出し、
「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、
流罪ということになっている様でございますが、
とにかく、前座主、明雲大僧正は、
他の者とは事変り、その学問の深さ、
天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、
行ないは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。
その上、我々にとっては、お経の師でもあり、
高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。
これ程の人を流罪にする事は、
決して穏便な事ではござりません。
何卒、
もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」
と、苦々しげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、
恐るる色もなく述べたてた。
一座の者も誰一人反対する者はなく、
我も我もと賛成したのだが、
しかし、法皇のお憤《いきどお》りは、
寵臣から焚きつけられているだけに根深いものがあり、
誰一人法皇の心を柔らげる事ができなかった。
清盛も、
何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、
風邪《かぜ》気だからと体のいい玄関払いを喰らう始末で、
この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。
ここに前代未聞の座主の流罪が決ったのである。
明雲大僧正は、僧籍をとりあげられ、俗人の扱いをうけ、
大納言大夫 藤井松枝《ふじいのまつえだ》という俗名をつけられ、
伊豆国《いずのくに》へ流される事になった。
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【座主流し②】
この明雲大僧正は、
久我大納言顕通《こがのだいなごんあきみち》の子で、
仁安《にんあん》元年座主となり、
当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、
上からも下からも、尊敬されていた人だったが、
ある時、陰陽師《おんようし》の安倍泰親《あべのやすちか》が、
「これ程、智識のある人にしては不思議だが、
明雲の名は、上に日月、下に雲と、
行末の思いやられるお名前だ」
といったことがあったが、今になってみると、
その言葉もある程度うなずけるものがある。
二十一日は、座主の京都追放の日であった。
執行役人に追い立てられながら、
座主は泣くなく京をあとにして、
一先ず、一切経谷にある草庵に入った。
二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。
さすがに日頃住みなれた都を離れ、
恐らくは二度と、
帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、
様々の想念が渦巻いていた。
一行は、夜あけがた京都を立ち、
やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。
そこからは、
比叡の山の青葉若葉の萌えたつような色どりの中に
朝夕なれ親しんできた、その姿をみると、
座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、
それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。
澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、
粟津《あわづ》まで送ってきた。
しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、
そこで別れを告げることにした。
澄憲の気持に感激した座主は、
年来、心中にあった一心三観の教義
——これは釈迦相伝の大事なもの——を伝授された。
もちろん、
澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。
山門ではこの度の沙汰は不満どころか、
全山、憤慨の極にあった。
それも西光法師親子の告げ口のせいだとばかり、
西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。
いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、
山門では、大会議が開かれていた。
「初代|義真《ぎしん》より今日まで五十五代、
座主が流罪になるなどという不法は行われなかった。
いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、
栄えある当山をないがしろにするやり方だ。
即刻座主をうばい返そう」
勢の良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、
われもわれもと、わめき声をあげて、
東坂本にかけ下りてきたのである。
ここで再び会議が開かれた。
「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、
座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、
役人がついている以上、
果して無事に取り返せるかどうかが心配だ。
それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。
もし我々を助けて、無事に座主を取戻せるものなら、
先ずここでその兆《しるし》をみせて頂こう」
という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。
すると、山門に使われている鶴丸《つるまる》という少年が、
急に体中から汗をふき出して苦しみ始めた。
「私に十禅師権現《じゅうぜんじごんげん》がのり移ったのです。
どんな事があっても当山の座主を他国へ追いやる事は許せません。
そんな事になっては、
私がこのふもとに神として祭られていても、
何の意味もない事です」
左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。
この不思議さに、
「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、
私共が証拠の品を渡すから、元の持主に返してみるがいい」
と老僧四、五百人の手にした数珠《じゅず》を、
床の上に投げあげた。
少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持主に返した。
ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、
座主を取り戻す決意を新たにしたのである。
「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。
命をかけても、座主を連れ戻そう」
海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、
雲霞《うんか》の如き衆徒の群に肝《きも》をつぶした護送役人は、
座主をうっちゃって、命からがら逃げ出してしまった。
🙇座主の読み方は〈ざす〉です。ざしゅと間違えているところがあります。訂正いたします🙇
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