【都うつり①】
〜京都の街は公卿も庶民も動揺した。
都うつりさせ給うとのことである。
都うつりの噂はかねて流れてはいたが、
まだまだ先のことであると人々は思っていた。
それが三日ときまっていたのを一日早められた。
ことの意外に京中はあわてふためいた。
院政に訣別し新帝を擁して
平家独裁政府樹立にふみ切った清盛の意志は固かった。
六月二日午前六時、天皇は御輿にのった。
年僅かに三歳の幼児である。
無心に乗る帝と共に同乗したのは母后《ぼこう》ではなく
御乳母《おんめのと》の帥典侍殿《そつのすけどの》一人、
そして
中宮建礼門院、後白河法皇、高倉上皇も御幸《ごこう》になれば、
太政大臣以下の公卿殿上人、
平家では入道清盛以下一門がつき従った。
一行は翌三日福原に入った。
入道の弟 池《いけの》中納言 頼盛《よりもり》の山荘が皇居にきめられ、
四日頼盛はその賞として正二位に任ぜられた。
清盛は諫められたこともあったので、
漸く後白河法皇を鳥羽の北殿から出して京都へ移したが、
法皇の御子高倉宮の謀叛を大いに怒り、
このたび福原への御幸を強い、四方に板垣をめぐらし、
入口を一つだけ開けた三間四方の粗末な板屋を作り、
ここに法皇を押しこめた。
守護の武士としては原田大夫種直ただ一人だけつけておき、
容易に人の出入りも出来ない有様である。
大人たちは御所と称していたが、
何事も現実的に表現する子供たちは、これを牢と呼んでいた。
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【都うつり②】
法皇が世を厭われたのは当然であろう。
あれほど強かった政治への執心も
今は全く薄れ消えたかに思われた。
「今の世の政治にかかわろうとは露も思わぬ。
ただ霊山名刹を廻って修行し、心慰めたいものである」
と側近にもらされていた。
さる安元以来、多くの大臣公卿を殺し、
あるいは流し、法皇を押しこめたり、
第二皇子高倉宮を討ちとるなど、
悪逆非道の行ないを尽している平家の残された悪行は、
都うつりだけである。それでこの挙に出たものであろうか、
などと人々はいい交していた。
もっとも都うつりには多くの先例がある。
神武天皇以来代々の帝王が都をうつすことは
三十度にも四十度にもなる。
奈良の都、春日《かすが》の里から山城国長岡にうつり、
その十年の正月に大納言藤原|小黒麻呂《おぐろまろ》、
参議|左大弁紀古作美《さだいべんきのこさみ》、
大僧都玄慶《だいそうずげんけい》らを
この国の葛野郡宇多村《かどのこおりうだのむら》に遣わしたところ、
「この地の形相をみまするに、
左《さ》青竜《しょうりゅう》、右《う》白虎《びゃっこ》、
前《ぜん》朱雀《すざく》、
後《ご》玄武《げんむ》の四神の配置にふさわしき土地、
帝都の地としてまことに適当と存じます」
という奏上があった。
そこで天皇は愛宕郡《おたぎのこおり》にある賀茂大明神にこれを告げ、
延暦十三年十一月二十一日、長岡の都からこの京へうつられ、
以後帝王三十二代、星霜三百八十余歳を数えたのである。
これ以来代々の天皇は、
諸所に都をうつされたが何れもこの京都ほどの地はなかった。
🌺🎼#花散ル風 written by #蒲鉾さちこ
【都うつり③】
京都を殊の外気に入られた桓武天皇は、
大臣公卿、諸国の才人などに命じて、
土で八尺の人形をつくり、鉄の鎧兜を着せ、
弓矢をこれに持たせて東山の峰に西向きに立てたまま地に埋めた。
この都は永久に続くべしという桓武天皇のご祈念であった。
「末代になるともこの地から都うつすなかれ、
うつさば守護人となりてこれを罪せよ」
という意味であった。
それ故天下に大事の起る時、常にこの塚が鳴動するのである。
平ら安き都と書いた平安城は京都のことであるが、
平家の先祖桓武天皇が自ら定められ、
愛された土地から都をうつすとは、情ないことである。
先年嵯峨天皇のとき、
先帝の平城天皇が都を他国へ移そうとされたことがあったが、
公卿や諸国の人民こぞって反対したので沙汰止みとなったのであった。
いま入道相国は大した理由もなく、
臣下の身分でこれを敢て行なったのである。
京都はすばらしい都であった。
王城守護の鎮守はこの地を安泰に守り、
京の南北には霊験あらたかな寺々 甍《いらか》を並べて壮観を極めた。
五畿七道へ通じる八達の路は開けて交通の要衝であり、
百姓万民心を安んじて生業にはげむことのできる土地であった。
いまその面影はない。
軒をつらねた家々は傾き、
たまに訪れる人は
勝手のちがう様子に道に迷って途方にくれるばかりである。
都うつりの時、新都に住家をつくるため、
壊せる家は壊して材木にして筏《いかだ》を組み、
あるいは持てる家財を運んだあと叩き壊して川に打ち捨てたのであった。
かくて花の都も、いまや荒れた田舎である。
ふるき都の内裏の柱にこれを惜しむ歌二首が記されてあった。
百年《ももとせ》を四かえりまでに過ぎ来にし
おたぎの里の荒れや果てなん
咲き出ずるはなの都をふり棄てて
風ふくはらの末ぞあやうき
【新都】
この年六月九日、新都の政事始めとして、造営の計画が練られた。
上卿《しょうけい》には徳大寺の左大将 実定卿《じっていのきょう》、
土御門宰相《つちみかどのさいしょうの》中将 通親卿《とうしんのきょう》、
奉行弁《ぶぎょうのべん》には、
前左少弁行隆《さきのさしょうべんゆきたか》が任ぜられ、
役人多数引きつれて土地の検分を行ない、
和田の松原の西の野を九条まで区割りしたところ、
一条から五条までは土地があったが、それ以上の場所がない。
この報告を受けた政府では、
それなら播磨の印南野《いなみの》か、
この摂津の昆陽野《こやの》かなどと公卿会議の席上でも討論されたが、
実行に移されるとも見えなかった。
新都建設は進まず、人心は浮雲のごとく、
すでに住んでいた民はその土地を失い、
新たに移ってきたものは家の建築に苦しみ、
何れも皆心落ちつかずに茫然となる始末である。
夢のごとき有様といえようか。
ここに土御門となった宰相中将通親は、
再三にわたって開かれた会議で強く発言した。
「異国の例では三条の大路を開き、十二の洞門を立つと書物にある。
土地検分では五条あるという、
五条の都に内裏《が建てられぬ道理はない、
まず里《内裏をつくるべきだ」
これが会議の決定となった。
清盛は五条の大納言国綱に臨時に周防国を与え、
内裏の建設を命じた。
この国綱は当代屈指の富豪であったから、
内裏建設はもとより困難ではなかったが、
使役される人民の苦しみは尋常一様ではなかった。
かかる乱世に国を遷し内裏を造営するなど、
時宜に適せぬことである。
その昔、民の炊煙の乏しきを憂えられて、内裏には茅をふき、
貢物を免除されるなど、上代の聖君は民を恵み、
国を富ますことに心を払われたのであるが、
それに比べて今のやり方は、などと人々は話し合ったのである。
【月見①】
しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。
六月九日起工の式、八月十日|上棟の式、
十一月十三日遷幸と定められ、
人々も多少はゆとりをもってきた。
福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、
凶変の重なった夏もすでに過ぎ、秋はすでに半ばである。
人々は仲秋の月に心を慰めた。
福原の新都に落ちついた公卿たちは月見に出かけた。
かねて名所といわれたところや、
そのかみの源氏の宮を慕って人々は須磨から明石へ浦づたいに赴いた。
白浦《しらら》、吹上《ふきあげ》、
和歌の浦、住吉、難波、など景勝の地に月を賞ずるものもあれば、
尾上《おのえ》の曙の月を惜しむものもいた。
もとの都、京に残った者は、これも伏見、広沢で月を仰いだ。
なかでも徳大寺の左大将実定は旧都を忘れかねて、
八月十日すぎ福原を立ち京へ上った。
京に入った彼は、二月のあいだに変り果てた昔の都に心を痛めた。
多くの家は取り壊され持ち去られて、
たまに残った邸の門前に草が茂り、
庭をおおう夏草には露をおびている。
かつて持主が誇った庭園はよもぎの山と化し、
かやが風にゆらぎ、
黄菊、紫蘭《しらん》などの野草が僅かに秋の風情を伝えるばかり。
草むらに鳴く虫の声も古き恨みを告げている。
徐々に賑いをみせてきた新都福原にひきかえ、
荒れた田舎がここにあった。
【月見②】
実定の身内のもので、
この京に残っているものは近衛河原の大宮ただ一人、
荒野をさまようにも似た心地の実定は大宮を訪れた。
従者が大門を叩く。
「どなた、蓬の露を払ってまで訪れる人もないのに」
とは女の声、あとは一人呟くともとれぬ声である。
「福原から大将殿がお見えでございます」
「まことでございましょうか、大門には錠がかかっております。
東の小門からお入り下さりませ」
東の小門から内に入った大将は、
南面の格子を開き琵琶を弾いている大宮を認めた。
寂しさのあまり、こうして一人昔のことを偲んでいたのであろうか。
すっと室に入った大将に大宮は夢とばかりに喜んだ。
この席に、大宮に仕えている待宵《まつよい》の侍従がよばれた。
彼女はある時御所で、
「恋人を待つ宵、帰える朝、いずれが哀れまさろうか」
との問に、
『まつよいの更けゆく鐘の声きけば
かえるあしたの鶏《とり》はものかは』
と詠み、待つ宵のやる瀬なさを歌ったので、
以後待宵の侍従と呼ばれた。
三人でつもる話がはずみ、夜は更けていった。
この夜、大将実定は、
古き都の荒れ行くさまを今様《いまよう》に歌った。
『ふるき都を来て見れば 浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈《くま》なくて 秋風のみぞ身にはしむ』
庭に生い茂る野草が月明らかに照らし、
草をそよがす秋風に降る虫の声が哀れにまじる。
今様を三度くり返すうちに、大将も大宮の眼にも涙が浮んだ。
侍従は袖で顔をおおった。
一夜明かした実定が暇を告げた。
しばらくして供の蔵人《くらんど》を召した彼は、
「侍従待宵はどう思っているのだろう、あまりに名残惜しく見えたから、
お前戻って何か申してまいれ」
蔵人が走り帰って侍従にあい、
『物かはと君がいいけん鶏の音の
今朝しもなどか悲しかるらん』
女房はただちに詠み返した。
『待たばこそ更けゆく鐘もつらからめ
帰るあしたの鶏の音ぞうき』
実定のところにもどってこの由をつたえると、
大将は大いに感心したが、
以後この蔵人は「ものかはの蔵人」と呼ばれたのであった。
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