🌿平家物語 第1巻 願立①〈がんだて〉🌿
豪気な帝であった故白河院が、
「賀茂川の水、双六《すごろく》の骰《さい》、
比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」
といって嘆いたという話がある。
山門の横暴振りは他にも伝わっている。
しきりに欲しがったことがあった。
余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、
大江匡房《おおえのまさふさ》が、
法皇を諫《いさ》めて、
「お断りになってもようございますが、
もしも、山門の僧兵共が、神輿《みこし》を先頭に攻めてきたら、
いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません、
それならいっそ、聞き入れてやった方が」
と、山門に刃向う、ばからしさを説いたので、
法皇も気が変り、
「全く、山門が相手では、どうしようもない」
といって許したのである。
山門の威力に就ては、こんな話もある。
それは、嘉保《かほう》二年の事であるが、
美濃守《みののかみ》源 義綱《よしつな》という男が、
叡山の僧であった円応を殺した事件があった。
早速、叡山側から、日吉《ひえ》の社司、延暦寺の寺官等、
三十余人が、訴状を持って、
当時の関白、藤原 師通《もろみち》の許へ脅迫にやってきた。
関白は、権少輔頼春《ごんのしょうよりはる》という侍に命じて、
武力で追っ払えと命令を下した。
突然の武力の応酬に、殺される者、傷を負う者が続出、
山門の使いは、ほうほうの態で逃げ帰った。
これを聞いた、山門の幹部達が事の子細を、
朝廷に直訴にやってくると聞いた関白は、
再び、武士、検非違使《けびいし》に先手を打たせ、
都に入らぬ先に、追い返してしまった。
いよいよ怒った山門の衆徒達は、
今は、唯、憎い関白を、祈り殺せとばかり、
七社の神輿を、根本中堂《こんぽんちゅうどう》に振上げて、
その前で七日間、大般若経《だいはんにゃきょう》を読み続けた。
最後の日になると、
仲胤法印《ちゅういんほういん》という僧が立ち、
おそろしい声で、
「われらの神よ、何卒、御二条《ごにじょう》の関白に、
かぶら矢を当てて下さい。何卒お願い申します、
八王子権現《はちおうじごんげん》の神よ」
といって願った。
その晩不思議な夢を見た人があって、八王子権現の社から、
かぶら矢の放たれる音がしたとみる間に、
京の御所を指してとんでいったというのである。
ところがもっと不思議な事には、
翌朝、関白の家の格子《こうし》をあけると、
今、山からとれたばかりとしか思えない樒《しきみ》が、
一枝置かれていた。
従来、不吉な木である樒が関白の家の前にあったことは、
たちまち、京都中の評判になったが、
その噂も広まらぬ先に関白は重い病にかかり、
明日をも知れぬ身となってしまった。
今更、山王の祟《たた》りの恐しさをまのあたりにみて、
関白の母である摂政藤原 師実《もろざね》の妻は、
もういても立ってもいられない気持である。
ある日こっそり、身をやつして日吉の社にこもって、
七日七晩、祈り続けた。
願が、かなえられた暁には、芝田楽《しばでんがく》を百回、
百番のひとつもの(祭礼の行列で、一様の装束をしたもの)、
競馬《くらべうま》、流鏑馬《やぶさめ》、
相撲《すもう》をそれぞれ百、
仁王講《にんおうこう》を百座設け、
薬師講《やくしこう》を百座、
親指と中指の長さの薬師百体、等身大のもの百体、
並びに釈迦《しゃか》、阿弥陀《あみだ》の像を
それぞれ造立《ぞうりゅう》寄進するという条件であった。
その上、心中には、尚《なお》ひそかに、願立てたことがあったが、
それは、内深くひめて表には出さないでいた。
満願の夜、八王子の社の参詣人の一人で、
奥州の方から上京してきた少年が、突然、気を失って倒れた。
人々がいろいろ手を尽して介抱すると、
まもなく息を吹き返したが、
今度は、よろよろっと起き上ると、
人々の呆然とした顔を尻目に、舞を舞い始めた。
舞うこと半時間ばかりすると、
山王の神がのり移ったのか、
少年は、不思議なご託宣を述べるのであった。
「皆様方よ、確かにお聞き下さい。
関白殿の母上様は、今日で七日、この社におこもりになった。
それは知っての通り関白の命乞いに来たので、
この際母上には、三つばかり、願立てをされたのです。
それは、一つは、
この社の下段にこもっている片輪に混って、一千日の間、
山王に仕えようというお心なのです。
殿下の母であり、摂政の妻ともある高貴の人が、
こういう思いきった気持になる程、
母の愛は強いものなのでしょう、
それにしても又何とあわれな事でございましょう。
二つ目には、大宮橋のたもとから八王子のお社まで、
廻廊を作って寄進すると申されているのです。
三千人の大衆が、参詣の時、
雨降りや、日照りに悩まされる事もなくなって、
どんなに助かる事でしょう。
三つ目には、殿下のお命が長らえた時には
法華経《ほっけきょう》の講読を毎日、
一日の休みなく行わせましょうというのです。
この三つどれも中々大ていな事ではありませんが、
先の二つはともかく、
法華講だけは是非やって貰いたいものです。
とは言え、今度の訴訟は、
お取上げ下さればわけない事だったのを、
中々お許しにならなくて、
そのため、神官や、宮仕えの者が殺され傷を負って、
泣くなく山王に訴え出た様子をみると、
どうにも、気の毒で忘れられないのです。
その上、彼らが受けた傷は、
実は、和光垂跡《わこうすいじゃく》
(神仏が姿を変えてこの世に現れ出ること)
のお肌に当ったので、そのしるしにこれごらん下さい」
肩を脱いだところをみると、左の脇《わき》の下に、
大きなかわらけほどの傷口があるのだった。
巫子《みこ》は言葉を継いで、
「というわけで、母上の願は尤《もっと》もなことですが、
もし法華講をきっとやってくれるというならば、
三年だけは、命を助けてあげましょう。
しかしそれ以上のことは、私としても力及ばぬことです」
そこまでいうと、山王のご託宣は終った。
関白の母は、もちろん、心中ひそかに、願立てたことで、
人にもらした覚えもなかったから、
疑うことなくご託宣をうけ入れた。
「たとえ一日でも、
命を伸ばして下さったら有難い事でございますのに、
三年とは、何と嬉しい有難い話でございます」
と感激の涙を流して都へ帰っていった。
早速、関白領であった、紀伊国、田中庄《たなかのしょう》を、
八王子に寄付された。
今日まで、法華経が八王子の社で絶えないのは、
そのためだとも言われている。
関白師通は、間もなく病気が回復した。
が、三年という限られた月日は、またたく間に過ぎ、
永長《えいちょう》二年六月二十七日、
髪の生え際にできた、できもののために、
三十八歳という若さで、惜しまれつつこの世を去った。
山門に刃向う事の恐しさをまざまざと見せつけられた事件であった。
🍂🎼呪いに侵食され歪んでゆく空間 written by KK
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