法印からの話を聞かれた法皇は、
もうそれ以上は何事も仰有《おっしゃ》らなかった。
清盛の話を、もっともと思われたのではなく、
いっても無駄と諦めてしまわれたものらしい。
十六日になって、
突然関白基房始め四十三人の公卿殿上人に、
追放の命令が下った。
これは、かねがね清盛が考えてもいた事で、
世間では当然予測されていたのだが、
さすがに実際の命令が下ってみると、
いささか無理押しの感じは免れなかった。
関白基房は、
鳥羽《とば》古川《ふるかわ》のあたりで
を下して出家した。
「こういう世の中では、
こんな目に逢うのも仕方がないことじゃ」
いさぎよい諦めの言葉にも、
どこか割切れない淋しさが残っていた。
年はまだ三十五の男盛り、礼智に長け、
公平な物の観方で政治に臨んできた態度には、
各界から異口同音の同情が寄せられた。
基房の落着いた先は、
備前国 湯迫《ゆはざま》であった。
大臣が流罪に処せられた前例は、
今迄に六人程はあるが、
現職の摂政関白で流罪となった例は今回が始めてであった。
基房の後任には、
清盛の婿に当る二位中将基通が、破格の昇進で、
大、中納言をさしおいて関白に任ぜられた。
これ迄にもそのような事はままあったけれども、
余りにも情実の見えすいた清盛独断の人事には、
人々は苦い顔をしていた。
師長は、去る保元の乱にも土佐に流されており、
その後、流された四人兄弟の内
たった一人残って許されて帰京したのである。
それからあとは、調子良く昇進を重ね、
太政大臣の高位にまで上った人である。
詩歌管絃、いずれおとらぬ風流人であったから、
尾張国に流されても、
専ら、月を友とし、風に心をうたい、
琵琶を弾いたりしては、のどかな日々を楽しんでいた。
ある時、熱田明神に参詣し、
熱心に琵琶を奏《かな》でた。もとより、
風流の道などてんから解らぬ村人たちは、
この都落ちの貴人みたさに大勢集ってきたが、
いつか、
その妙なる調べに知らずしらず耳を傾けているのであった。
名手の弾く琴には魚も躍りあがり、
歌人の歌うを聞けば塵さえも動くといわれるが、
師長の弾く琵琶にはまさにそのように、
天地、大自然をも動かすほどの響きがこもっているのであった。
次第に夜も更けゆく中で、
琵琶の音はますます冴えわたるばかりである。
今は唯、我を忘れて秘曲を弾き続ける楽人、
石像のように押し黙ったまま指一つ動かさず聞きいる村人たち、
——この微妙な雰囲気はまさに絶妙といいたいほどで、
とうとう、しまいには、
宝殿がぐらぐらと震動したといわれている。
やっと我にかえった師長は、
「平家のために流罪にならずば
この瑞兆《ずいちょう》もみることができなかった」
と感激の涙をもらすのであった。
都では、免官される者も多く、重だったものでは、
按察大納言資賢《あぜちのだいなごんすけかた》、
子息|右近衛少将《うこんえのしょうしょう》兼《けん》
讃岐守源資時《さぬきのかみみなもとのすけとき》、
参議皇太后宮権大夫《さんぎこうたいこうぐうのごんのだいふ》兼
右兵衛督藤原光能《うひょうえのかみふじわらみつよし》、
大蔵卿右京大夫《おおくらきょううきょうのだいふ》兼
伊予守高階泰経《いよのかみたかしなやすつね》、
蔵人左少弁《くらんどのさしょうべん》兼
中宮権大進藤原基親
《ちゅうぐうのごんのだいしんふじわらもとちか》らがそれで、
そのうちでも按察大納言は、
子息、孫共に都を追放の憂き目にあった。
🥀🎼仄見える花衣 written by ハシマミ
【平家物語74 第3巻 行隆の沙汰〈ゆきたかのさた〉】
関白基房の家来、江大夫判官遠成
《ごうたいふはんがんとおなり》という者がいた。
日頃から平家には反感を抱いていたが、
六波羅からの追手が迫ると聞き、
息子 江左衛門尉家成《ごうさえもんのじょういえなり》
といっしょに揃って家を出た。
家を出てみたが、
結局は行く目当もなく頼る人もない二人は、
稲荷山《いなりやま》にのぼって相談の結果、
住みなれたわが家で死のうと、
再び川原坂の宿所にとって返した。
六波羅からは、
源大夫判官季貞、摂津判官盛澄らが、
武装兵三百騎を引き連れて押し寄せてきた。
江大夫は縁に立ちはだかると、
群がる敵をはったとにらみつけ、
「各々方、この場の様子、とくと六波羅に報告いたせ」
といい放つと、矢庭に館に火を放ち、
親子揃って従容として腹かき切ったのであった。
多くの犠牲者を出し、
四十余人もの人々が憂目を見た今回の事件も、
発端はごく些細な出来事で、
関白になった二位中将基通
《にいのちゅうじょうもとみち》と、
前関白基房《さきのかんぱくもとふさ》の子
師家《もろいえ》の中納言争いが原因であった。
基房が事件に関わりのあるのは当然として、
他の人々は、全く無実な意味不明の免官であり、
追放であった。
一種の清盛の気まぐれがさせたいたずらにしても、
これは、あまりに性が悪すぎた。
いよいよ物情騒然たる世の中である。
「清盛入道の心は天魔に魅入られたのだろう」
「これからどんなことが起ることかのう?」
京の上下は恐れおののいているのである。
ところでここに前左少弁行隆
《さきのさしょうべんゆきたか》という男があった。
故|中山中納言顕時
《なかやまのちゅうなごんあきとき》の長男で、
二条院ご在世の折には、
それでも結構羽振りをきかしたものだったが、
この所十余年ばかり、
失業状態が続いて生活は苦しい一方であった。
この世間から全く忘れ去られたかに見えた男のところへ、
ある日清盛から、
「用事があるから、是非来るように」
という使いがあった。
行隆の驚きは、むしろ恐怖に近かった。
今まで清盛に呼び出された人のうち、
無事で帰ってきた者はなかったのだから無理はない。
しかし、
彼は世間から遠ざかっていた十余年間は、
陰謀や権力争いとは、
まるで無縁の生活をしていた。
「はてさて、わからぬのう、
このわしが十余年間何もしなかったことは確かじゃが、
ひょっとすると、
人の讒言《ざんげん》ということもあるのう」
考えれば考えるほど、
突然の清盛の呼び出しは彼にとって謎である。
北の方らも、
「どんな目にお逢いになりますことやら」
と袖を押えて、行くことをとめる始末だった。
しかし清盛の呼出しが
二度三度と重なってきては断わり切れなかった。
行隆はやむなく決心すると、
人から車を借りて西八条に赴いた。
不安な想いで、西八条の門をくぐった行隆は、
思いもかけず丁重な扱いをうけ、
待つ間もなく清盛にじきじきの目通りを許された。
「お父君には、清盛もいろいろ大事、
小事を相談いたしたものじゃったが、
そなたのことも決して忘れていたわけでなく、
長年、官を離れていることも気になっておったが、
法皇のご政務中は中々そうもいかなかったのだ。
しかし、今は遠慮は不要じゃ、
明日からでも出仕して下されい、
官職のことは追って手配しましょう」
おだやかな顔に微笑まで含んでそういわれたときは、
一瞬自分の耳を疑った。
まるで夢を見るような思いで行隆は、
とぶようにして家に帰った。
とても帰らぬと思っていた行隆が、
生きていたばかりか、
嬉しい知らせを持って帰ってきたので、
家中は唯嬉し泣きに泣くばかりであった。
続いて清盛は、源大夫季貞を使者として、
以後、支配する荘園を示させ、
更に当座のまかないにと、
馬百匹、金百両、米などを贈り、出仕の仕度にと、
牛車、牛飼、雑色《ぞうしき》まで整えて贈った。
この至れりつくせりの恩典に、
行隆は唯|呆然《ぼうぜん》とするばかりである。
「夢ではないのか、夢ではないのか」
彼は、くりかえしつぶやいていた。
翌日には、五位の侍中《じちゅう》、
元の左少弁に復官したのである。
時に行隆、既に五十一歳という年齢であった。
少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋 ぜひご覧ください🪷 https://syounagon.jimdosite.com