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いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語44】🍃山門への状牒🍂南都への牒状🍁南都返牒〜高倉宮を迎えた三井寺の大衆は比叡山と興福寺に檄文を送った。興福寺からは合力の返事が来る。清盛入道への悪口も‥😅 by🐈‍⬛

平家物語95 第4巻 山門への牒状】

高倉宮を迎え、頼政一派を受け入れた三井寺の大衆は、

起り得べき事態にそなえて急遽その対策をねった。

ほら貝が吹かれ、

鐘が打ち鳴らされて衆徒が一堂に集められ、

真剣な会議が開かれた。

平家の大勢に抗するに所詮人数が足らぬとあれば、

味方を至急集めねばならない、

ではいかにして動員するか、

衆徒の会議の焦点はここにあった。

「つらつら近時の世相を案ずるに、仏法の衰微、

政道の弱化がいまに過ぐるものはない、

もし清盛入道の暴悪をこらしめなければ、

いつの日を期せようか。

宮の当寺への入御も正八幡宮の加護というべきだ。

仏も神もわれわれの挙にその力を与え給うにちがいない。

思うに比叡山天台宗の一味、

奈良興福寺は安居得度の戒場である。

彼らに檄《げき》をとばすなら、

必ずやわれらに味方しよう」

 という意見が全員一致でむかえられた。

直ちに檄文が草されて、比叡山興福寺へおくられた。

 比叡山への状にいう。

「格別のご協力を願い、当寺の破滅を救っていただきたい。

入道清盛ほしいままに仏法を亡ぼし、

朝政を乱そうとする現状を、われらひそかに嘆いていた。

ところで、今月十五日夜、

高倉宮不慮の難を逃れられて当寺へ入御されたのであるが、

平家は院のご命令と称して

宮の引渡しを度重ねて要求してきている。

当時は固い決意をもって拒否してきたが、

平家は武力に訴えてもと、

軍勢を当寺へ差し向けようとしている。

当寺の危急存亡の秋《とき》、破滅のときである。

 案ずるに、延暦、園城《おんじょう》の両寺は、

今山門と寺門とにわかれてこそいるが、

学ぶところは共に一つの天台宗である。

これを例えるなら、鳥の双翼、車の両輪ともいえる。

もしこの一つでも欠けたなら、

その嘆きこれにまさるものはないと信じている。

どうか格別の協力で当寺の破滅を救っていただきたい。

 右はわれら衆徒全員の決議である。

よってこの檄文を貴寺へお送りする次第である。

 治承四年五月十八日 大衆一同」

 

🌺🎼#私の全てが嘘になる written by #のる

 

平家物語96 第4巻 南都への牒状〈なんとへのちょうじょう〉】

三井寺から檄文を受けとった比叡山門の大衆は、

いささか機嫌を損じた。

山門は本山であるとの自負がある。

「鳥の双翼、車の両輪」という文句が気に障った。

当山の末寺三井寺

山門を同格に扱うのは無礼であるというのである。

憤慨のうちに返事はのばされた。

これと殆んど時を同じうして、

天台座主明雲大僧正が突然山に来て、

衆徒を説得して廻った。清盛の打った手である。

こうして、三井寺への返事には、態度未定、目下検討中という

政治的用語をふんだんに使われた返書が送りかえされた。

入道清盛から、さらに比叡衆徒の懐柔策がとられ、

通りがかりの手土産として、

近江米二万石、

北国の織延絹《おりのべぎぬ》三千疋を山門へ寄せた。

急ぎ皆に分け与えよ、というので谷や峰の僧坊にわけられたが、

突然のことで分配はうまくゆかず、

どさくさに紛れての一人占めなどの火事場泥棒騒ぎであった。

 また奈良興福寺への三井寺からの檄は、

比叡に送ったものとほぼ同文であったが、その末尾に、

「特に貴寺においては、

罪なき関白藤原基房卿を鬼界ヶ島に流されるなど、

清盛からは多くのはずかしめを受けられている。

この時恥をすすがずんば、いつの日を期し得ようか」

 と特記し、格別の協力を要請したのであった。

 

🌺🎼#大河 written by #伊藤ケイスケ

 

平家物語97 第4巻 南都返牒〈なんとへんちょう〉】

山門から拒否同様の返事を受けた三井寺衆徒は、

これで孤立するのではないかとの不安におののいていたが、

興福寺からの返書は大いに気勢を上げさせた。

それほどこの返書は激越な文句で綴られていたのである。

興福寺より園城寺へ返事申す。

 当寺一味同志決議したこと左の如し。

 ともにわれわれは釈迦一代の教文を奉ずるもの、

 喜んで貴寺へ合力を誓うものである。

 およそ清盛入道は平氏のかす、武家のごみと申してよい。

 彼はもとより賤しい身の出であって、

 かつては名もない若侍さえ彼に仕えるのを恥じたものであったが、

 今や一族を貴官に列し、百官を下僕のように召し使い、

 王侯公卿でも意のままに捕縛する暴虐を行なっている。

 家代々の領地、荘園を奪うなど、

 その例数えるいとまがないほどであるが、

 去年の冬十一月には関白を配流されたのである。

 この古今に例のない暴悪に、

 われらは賊徒として彼をその罪に問うべきであったが、

 あるいは神慮ととなえ、

 あるいは勅旨と称して偽りの名分を立てるなどで、

 われわれも隠忍せざるを得なかった次第。

 ここに平家ども御所を包囲したところが、

 春日大明神ひそかに姿を現して高倉宮を貴寺に送り届けたのは、

 王法未だ衰えざる兆とみるべきものである。

 貴寺が身を捨ててご守護申し上げるのは喜ぶべきこと、

 当寺も合力に全力をあげるものである。

 当寺すでに十八日朝大衆を集め、

 諸寺に檄を飛ばし末寺に指令を与えるなど、

 合戦の準備を行なっていたところへ、

 貴寺の芳翰《ほうかん》を得たのであるから、

 われら衆徒一同の年来の不平霧消 士気大いにあがった。

 われら協力すれば、

 邪臣をうち払うことも難からずと信じている。

 貴寺親王を守りて、

われらの進発の報を待たれたい。

 

治承四年五月二十一日 大衆一同」

 まさに会心の返書である、

三井寺衆徒が何れもくり返しこれを読んだその心は

察するに難くはない。

夜を日に継いでの戦への準備もはずんだ。

🌹🎼#雷鳴の閃き written by #こーち

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