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いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語47】🪷宮の御最後①②③〜源三位頼政殿 壮絶な御最後。武者達の死闘の末 平家側の勝利。高倉宮も御最後を迎えられた。運命はちょっとしたことで変わってしまう‥by 😿

平家物語103 第4巻 宮の御最後①】

岸に先手をきっておどりあがった足利又太郎の装立ちは、

赤革縅の鎧、黄金作りの太刀、

二十四本背に差したるは切斑《きりふ》の矢、

重籐《しげとう》の弓を小脇にかいこんで、

乗る馬は連銭|葦毛《あしげ》、

鐙《あぶみ》をふんばって声を轟《とどろ》かせた。

「昔、朝敵|将門《まさかど》を亡ぼした

 俵藤太秀郷《たわらとうたひでさと》十代の後胤、

 下野国の住人足利太郎俊綱の子又太郎忠綱、

 生来十七歳のもの、

 かく無位無官の者が宮に弓を引き奉るは恐れ多いことなれど、

 弓矢の冥加《みょうが》平家の上に

 とどまっているものと存ずる。

 三位入道の御方のうち、われと思わん人は寄りあい給え、

 見参せん」

こう名乗りをあげると、足利は平等院の内へ攻めこんだ。

 この有様を眺めた大将軍の知盛は、

全軍に下知して渡河を命じた。

二万八千余騎どっと川に馬を入れれば、

さしも早い宇治川の水もたまらず上流に押し返される有様である。

一度び押し返された水は激しい急流となって流れこみ、

このため伊勢、伊賀両国の兵の馬筏《うまいかだ》が破られて

あれよと言う間に水に流される始末だ。

萌黄《もえぎ》、緋縅《ひおどし》、

赤縅など色とりどりの鎧の兵が浮きつ沈みつ流され、

溺れるもの六百余人を数えた。

平家の大勢が河を渡ると、

そのまま水しぶきをあげて平等院になだれこんで、

両軍必死の戦いが始まった。

三位入道、渡辺の勢が矢を射かけ太刀を振って防ぐ間に、

高倉宮は奈良を目指して落ちていった。

⚔️🎼虚無のイドラ written by shimtone

 

平家物語104 第4巻 宮の御最後②】

源三位入道年すでに七十余り、

左の膝がしらを射られて歩行が困難になった。

今や心静かに自害せんと

平等院の中へ引きあげようとするとき、

追いすがった敵があった。

このとき、次男源大夫判官兼綱、

この日紺地の錦の直衣《ひたたれ》に

唐綾縅《からあやおどし》の鎧を着て奮戦していたが、

父の危急をみると、ただちにとって返して防ぎ戦った。

追いすがる武者を斬り伏せたところへ、

上総太郎判官のひょうと射る矢が兼綱の内兜を射当てた。

がっくり弱る兼綱に

上総守の大力の子息次郎丸が馬をさっとそばに乗りつけると、

兼綱をむずと掴んで共に馬から落ちた。

地に転がりながら死力を尽してもみ合ううち、

大力の兼綱は次郎丸を組みしいたとみるや、

腰刀でその首をかき切った。

よろめき立ち上る兼綱の上に、

十四、五騎が折り重なってとびかかった。

力尽きた兼綱は此処に首級をあげられたのである。

 伊豆守仲綱も、

激戦のすえ体に多くの傷手を負うと

平等院の釣殿《つりどの》で自害した。

その首を打った下河辺藤三郎清親は、

敵の手に入らぬようにと大床の下へ投げ込んでかくした。

六条蔵人仲家その子蔵人太郎仲光も共に同じ場所で討死した。

平等院に入った三位入道頼政は、

渡辺|長七唱《ちょうしちとのう》を召し寄せると、

「わが首を打て」

 と静かな声で命じた。

涙をはらはらとこぼした家来は、

「私には出来ませぬ。

ご自害遊ばしましたら、

その後にこそ御首《みしるし》を頂きましょう」

と声をつまらせている。

その顔を見つめた頼政は、

かすかに肯くと正座して西方に向いた。

しわの多い手で合掌すると、

落ちついた声で念仏を十度び唱えた。

口をかたく結んだ頼政の表情は謀破れた無念さは止《とど》めず、

穏かなものがあったという。

再び開いた唇は辞世の歌を詠んだ。

埋木《うもれぎ》の花咲くこともなかりしに

  みのなるはてぞ悲しかりける

老人の手に刃が冴《さ》えて光り、頼政はうつ伏した。

涙をぬぐった長七唱の太刀が振られた。

主君の首を包んで小脇に抱えた長七唱は走り去った、

今やこの首を何んとしても敵に渡したくないだけである。

人気のない河原に出ると、彼は大石を拾い、

首をくくりつけると宇治川の底深く沈めたのであった。

⚔️🎼S.F.S (Sacrifice for Society) written by 秦暁

 

平家物語105 第4巻 宮の御最後③】

宮の勢を破り頼政一味の大将たちを討ちとった平家は、

何んとかしてあの競の滝口を生け捕りたいものと

機会をうかがっていたが、

もとより心得ていた競は

存分の戦で敵を数多倒すや腹かき切って自害した。

また円満院大夫源覚は、

もう宮も遥か落ちたであろうと、

右手に大長刀、左手に大太刀を持って敵中を突破、

宇治川に出るや水にもぐると

物具一つ失うことなく対岸に着いた。

そして小高い所に走りのぼると大声で嘲弄した。

「どうじゃ平家の者ども、

 ここまで来られたら来てみるがよい」

しばらくからからと笑うと、三井寺へ帰っていった。

 この乱戦の中で、

平家勢の飛騨守景家《ひだのかみかげいえ》は

さすが歴戦の強者だけあって、素早く判断を下した。

この戦いにまぎれて高倉宮は

奈良へ逃げられたにちがいない、

今なら間に合う、

と選《え》りすぐった精兵四、五百騎を引きつれると

馬に鞭をあて、鐙をけって疾駆した。

蹄の音どうどうと急追する景家は、

やがて光明山《こうみょうせん》の鳥居付近で

およそ三十騎ばかり宮を守って

ひたすら落ちる一群を見つけた。

それっとばかりに矢が雨のように宮の周囲に降る。

両者の距離はたちまちつまった。

宮のお伴鬼佐渡、荒《あら》土佐、

刑部俊秀必死に防ぎ戦ううち次々と討死、

一本の矢が宮の脇腹を射抜いた。

体を折って馬から落ちた宮にわらわらと敵兵駆けより、

宮の首はあげられたのであった。

 この時、宮の一行が知らなかったことがある。

興福寺の援軍はすでに出発していたのであった。

大衆七千余人武装して宮を迎えに出ていたが、

先陣は木津まで進んでいた。

宮の討たれた光明山鳥居との距離は、僅かに五十町である。

伝令が宮の最後を伝えたので

興福寺の大衆は引き揚げたのであるが、

僅か五十町の間をもちこたえられず

果てられた宮のご運こそ痛ましい限りである。

🪷🎼Cursed Doll written by ハシマミ

 

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