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いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語48】🪷若宮御出家①②🍃通乗〈とうじょう〉の沙汰〜闘いに負けるということは辛いこと😿高倉宮の若宮は、出家したり遠くへ落ちのびたりした。戦は哀しい by🐈‍⬛

平家物語106 第4巻 若宮御出家①】

三位入道、渡辺などの党を殲滅した平家の兵たちは、

三井寺の大衆もまぜて凡《およ》そ五百ほどの首をあげた。

頼政の首級は遂に発見できなかったが、

彼の子息たちの首はすべて探し出された。

太刀、長刀の切先にこの首を突きさした平家の軍勢は

勝鬨《かちどき》をあげ、

勇みわめきながら帰途についたが、その騒ぎは大きかった。

斬り落した首をかかげた軍勢が

六波羅についたのは夕方近かった。

首実験は簡単にすんだが、

問題になったのは高倉宮の首級である。

宮の世に隠れたような生活から

御所に出入してその顔を知っているものは少い。

先年宮が病気のとき召された医者 

典薬頭《てんやくのかみ》定成がいるはずである、

あの者なら首を確認できようというので、

使いが走ったが、

ただいま病の床に伏しているのでお役には立てない、

と申したきり出てこない。

そこで宮の情を受けた女が求められた。

ここに宮が長年寵愛しつづけて、

宮の子も多く生んだ女房が漸く見つかり、

これなら見損じはあるまいと呼び出された。

宮の首を一目見たこの女房は、

袖を顔に押しあてるとそのままうつぶした。

肩が大きく波打ち、

こらえきれぬ嗚咽《おえつ》がもれる。

宮の首は確かめられたのである。

🙇‍♀️動画タイトル 平家物語105となってますが106が正しいです。すみません🙇‍♀️

🌃🎼 星が落ちる written by のる

 

平家物語107 第4巻 若宮御出家②】

一方、平家首脳の間では、

高倉宮の子供たちが八方手をのばして追求された。

宮には腹違いの子供が多かったのであるが、

その中に八条女院に仕えていた伊予守盛教の娘で

三位局《さんみのつぼね》と呼ばれた女房には、

今年七歳の若宮と五歳になる姫宮がいた。

清盛入道の弟|池《いけの》中納言|頼盛《よりもり》は

使いとして八条女院の御所を訪ね女院に言上した。

「姫宮については何も申しませぬ。

 若宮を当方に引渡して頂きとう存じます」

「今はもう遅うございます。

 若宮お召出しという噂がここにも伝わった暁方、

 乳母たちが浅はかな考えから若宮を連れ出してしまいました。

 この御所にはおりませんし、

 私もどこへかくれているのか知りませぬ」

女院は答えた。

もちろんこれはかくまうがための方便であったが、

頼盛が仕方なくこの旨を入道に伝えると、

清盛は声を荒らげていった。

「お前も何んという人の好い奴だ。

 若宮があの御所にいなくてどこにいる。

 あそこにいないというなら武士どもをやって、

 も一度探し出してまいれ」

 こうした中で若宮は女院に悪びれるところなく申しあげた。

「これほどの大事になりました以上、

 もはや逃げかくれいたしますることはできませぬ。

 どうか私を六波羅へさし出して下さいませ」

 若宮の子供とは思えぬ毅然《きぜん》とした言葉に

女院は涙を新たにした。

「七つ八つの年頃の子といえばまだ聞き分けのない頃、

 自分のための騒ぎと知ってこんなことをいうのを聞くのは悲しいこと、

 六年も七年もの間、わが子のように慈しみ育ててきたのに、

 今このような辛い目に会おうとは」

と泣かれて、六波羅へ若宮を渡す気持にはなられない。

そこへ再び頼盛が来て申しあげたので、

女院もとうとう、あきらめられた。

 その当日、若宮の母三位局は、

朝早くからわが子のそばにつききっていた。

泣くなく着物を着せ、髪を何遍も丁寧に梳《くしけず》る、

わが子の手にふれ、肩にふれ、

顔を両手でおさえて離さなかった。

六波羅からの車に若宮は乗せられた。

女院をはじめ、局の女房、

童女にいたるまで涙とともに見送った。

若宮の車が六波羅につき車から降されたとき、

前右大将宗盛がその姿を見つめた。

しばらくして父清盛に宗盛はいった。

「前世の宿縁とも申しましょうか、

 若宮を一目いま見まして宗盛胸が痛みました。

 余りに痛わしく存じます。

 若宮の命を助けても大きな影響はもはやありますまい。

 どうかこの宗盛に若宮の命をおあずけ下さいませぬか」

この言葉に清盛は考えこんだ。

恐らく彼は宗盛のいう前世の宿縁など問題にしていなかった。

彼の頭は高倉宮謀叛と頼政一味の蹶起《けっき》、

この事件が影響を及ぼす政情の推移、

あるいは諸国の治安の紊乱、

一代にして築いたおのが地位など考えぬいたであろう。

宗盛には父の前に坐っている時間が、

おそろしく長く思われた。

やおら清盛はこまねいた腕を解くとそっけなくいった。

「それならさっさと出家させてしまえ」

 宗盛からこの知らせを受けた女院は、

喜ぶには余りにも大きな衝撃をうけていたのか、

顔色を変えたまま、

「何の異存がありましょう、ただ早くして下されませ、ただ早く」

とくり返すばかりであった。

 こうして若宮は髪を落し、

法師の姿となって仁和寺《にんなじ》御室《おむろ》の弟子になった。

後に東寺《とうじ》の一の長者安井宮の大僧正道尊といわれた人は、

実にこの若宮であった。

🪷🎼Farewell song written by稿屋

 

平家物語108 第4巻 通乗〈とうじょう〉の沙汰】

また高倉宮の子は奈良にも一人いたが、

守護役の讃岐守重秀《さぬきのかみしげひで》が出家させて、

北国へ逃れ落ちていった。

後に木曽義仲が京へ攻めのぼるとき皇位につけようと

還俗《げんぞく》させたので、還俗の宮とも、

木曽の宮ともよばれたのである。

 昔、通乗という人相の達人がいたが、

宇治関白頼通、二条関白教通の相を見て、

三代の天子の関白となり八十歳長寿を保つといったが、

見事これに違わなかった。

この達人が高倉宮の人相は

皇位につかれるべき御相だなぞといっていた。

人々は人相を占った通乗のことをさまざまに噂しては、

以後信頼を寄せなかったのである。

 さて清盛は事態が収まると恩賞を行った。

まず宮の謀叛調伏について必死に祈念した高僧たちに

それぞれ位を与えた。

重盛の子侍従清宗は三位に叙せられたが、

その辞令には、

「源以仁《みなもとのもちひと》、

 並びに三位入道頼政父子追討の賞」

とあった。

源以仁とは高倉宮のことである。

皇子を討った上に臣下扱いの姓を与えるなど、

あさましい行ないの限りであろう。

🌕🎼月へ続く道 written by すもち

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