🪷【源氏物語584 第19帖 薄雲15】明石の上のことを絶えず思いやっている源氏は、公私の正月の用が片づいたころのある日、大井へ出かけようとして、ときめく心に装いを凝らしていた。
〜山荘の人のことを絶えず思いやっている源氏は、
公私の正月の用が片づいたころのある日、
大井へ出かけようとして、
ときめく心に装いを凝らしていた。
桜の色の直衣《のうし》の下に美しい服を幾枚か重ねて、
ひととおり薫物《たきもの》が たきしめられたあとで、
夫人へ出かけの言葉を源氏はかけに来た。
明るい夕日の光に今日はいっそう美しく見えた。
夫人は恨めしい心を抱きながら見送っているのであった。
無邪気な姫君が源氏の裾《すそ》にまつわってついて来る。
御簾《みす》の外へも出そうになったので、
立ち止まって源氏は哀れにわが子をながめていたが、
なだめながら、
「明日かへりこん」
(桜人その船とどめ島つ田を
十町《まち》作れる見て帰りこんや、
そよや明日帰りこんや)
と口ずさんで縁側へ出て行くのを、
女王《にょおう》は中から渡殿の口へ先まわりをさせて、
中将という女房に言わせた。
船とむる遠方人《をちかたびと》のなくばこそ
明日帰りこん夫《せな》とまち見め
物馴《な》れた調子で歌いかけたのである。
源氏ははなやかな笑顔《えがお》をしながら、
行きて見て明日もさねこんなかなかに
遠方人《をちかたびと》は心おくとも
と言う。
父母が何を言っているとも知らぬ姫君が、
うれしそうに走りまわるのを見て夫人の
「遠方人《おちかたびと》」を
失敬だと思う心も緩和されていった。
🪷【源氏物語585 第19帖 薄雲16】紫の上は、明石の姫君を抱きとって、美しい乳を飲ませると言って口へくくめなどして戯れているのは、外から見ても非常に美しい場面であった。
〜どんなにこの子のことばかり考えているであろう、
自分であれば恋しくてならないであろう、
こんなかわいい子供なのだからと思って、
女王はじっと姫君の顔をながめていたが、
懐《ふところ》へ抱きとって、
美しい乳を飲ませると言って
口へくくめなどして戯れているのは、
外から見ても非常に美しい場面であった。
女房たちは、
「なぜほんとうのお子様にお生まれにならなかったのでしょう。
同じことならそれであればなおよかったでしょうにね」
などとささやいていた。
🪷【源氏物語586 第19帖 薄雲17】大井の山荘は風流に住みなされていた。明石は源氏が見るたびに美が完成されていくと思う容姿を持っていて、この人は貴女に何ほども劣るところがない。
〜大井の山荘は風流に住みなされていた。
建物も普通の形式離れのした雅味のある家なのである。
明石は源氏が見るたびに
美が完成されていくと思う容姿を持っていて、
この人は貴女《きじょ》に何ほども劣るところがない。
身分から常識的に想像すれば、
ありうべくもないことと思うであろうが、
それも世間と相いれない偏狭な親の性格などが
禍《わざわ》いしているだけで、
家柄などは決して悪くはないのであるから、
かくあるのが自然であるとも源氏は思っていた。
逢っている時が短くて、
すぐに帰邸を思わねばならぬことを苦しがって、
「夢のわたりの浮き橋か」
(うち渡しつつ物をこそ思へ)と源氏は歎かれて、
十三絃の出ていたのを引き寄せ、
明石の秋の深夜に聞いた
上手な琵琶《びわ》の音《ね》もおもい出されるので、
自身はそれを弾《ひ》きながら、女にもぜひ弾けと勧めた。
明石は少し合わせて弾いた。
なぜこうまでりっぱなことばかりのできる女であろうと
源氏は思った。
🪷源氏物語587 第19帖 薄雲18】源氏は、明石の上の山荘でくつろいで過ごしている。明石の上は、飽かれぬために 地理的に不便で、特に思い立って来なければならぬ所にいるのが自分の強味と思っている。
〜源氏は姫君の様子をくわしく語っていた。
大井の山荘も源氏にとっては愛人の家にすぎないのであるが、
こんなふうにして泊まり込んでいる時もあるので、
ちょっとした菓子、強飯《こわいい》というふうな物くらいを
食べることもあった。
自家の御堂《みどう》とか、
桂《かつら》の院とかへ行って定まった食事はして、
貴人の体面はくずさないが、
そうかといって
並み並みの妾《しょう》の家らしくはして見せず、
ある点までは
この家と同化した生活をするような寛大さを示しているのは、
明石に持つ愛情の深さがしからしめるのである。
明石も源氏のその気持ちを尊重して、
出すぎたと思われることはせず、
卑下もしすぎないのが、
源氏には感じよく思われた。
相当に身分のよい愛人の家でも
これほど源氏が打ち解けて暮らすことはないという話も
明石は知っていたから。
近い東の院などへ移って行っては
源氏に珍しがられることもなくなり、
飽かれた女になる時期を早くするようなものである、
地理的に不便で、
特に思い立って来なければならぬ所にいるのが
自分の強味であると思っているのである。
🪷【源氏物語588 第19帖 薄雲19】太政大臣が薨去した。国家の柱石であった人であるから帝もお惜しみになった。すべてをその人に任せていたので、死別の悲しみのほかに 責任の重くなることを痛感した。
〜明石の入道も今後のいっさいのことは
神仏に任せるというようなことも言ったのであるが、
源氏の愛情、娘や孫の扱われ方などを知りたがって
始終使いを出していた。
報《しら》せを得て胸のふさがるようなこともあったし、
名誉を得た気のすることもあった。
国家の柱石であった人であるから
帝《みかど》もお惜しみになった。
源氏も遺憾《いかん》に思った。
これまではすべてをその人に任せて
閑暇《ひま》のある地位にいられたわけであるから、
死別の悲しみのほかに責任の重くなることを痛感した。
帝は御年齢の割に大人びた聡明な方であって、
御自身だけで政治をあそばすのに
危《あぶな》げもないのであるが、
だれか一人の御後見の者は必要であった。
だれにそのことを譲って静かな生活から、
やがては出家の志望も遂げえようと思われることで
源氏は
太政大臣の死によって打撃を受けた気がするのである。
源氏は大臣の息子や孫以上に
至誠をもってあとの仏事や法要を営んだ。
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