google.com, pub-8944455872984568, DIRECT, f08c47fec0942fa0

いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語22】🪷大納言死去 ①②〜俊寛僧都、藤原成経卿、平康頼殿が流されたのは鬼界ヶ島🌋藤原成親卿は、吉備の中山で御最後😿 極限状態であっても家族を思う気持ちに心打たれるby 🐈‍⬛

平家物語40 第2巻 大納言死去①】

やがて、

法勝寺執行《しゅぎょう》俊寛丹波少将成経、平判官康頼の三人は、

清盛の命令で薩摩潟《さつまがた》の鬼界ヶ島《きかいがしま》に

流されることになった。

この鬼界ヶ島とは、都を遠く離れた孤島であり、

便船もろくろく通わないという離れ小島である。

住民は、土着の土民がいることはいるが、体は毛むくじゃらで、

色は真黒く、烏帽子《えぼし》をつけている男もいないし、

女は髪も下げていない。

言葉はてんで通じないという心細さである。

田を耕すすべも知らず、食物は専ら魚鳥を常食としている。

かいこなど飼うことも知らないから、

身にまとっている者はほとんどないという。

まったく原始人そのままの生活が続けられていた。

島の中に高い山があり、年中火を噴いて、

あたりは硫黄が満ちみちていたので硫黄ヶ島とも呼ばれる。

雷がしょっちゅう鳴って雨もよく降る。

とにかく、およそ、

なれない人間の住み得るようなところではなく、

ここに流されることは、

いわば、自然に死を与えるのと同じ結果であった。

 

新大納言成親は、そのうちには、

平家の追窮の手もゆるむかも知れないと、やや期待していたものの、

成経が、今、又鬼界ヶ島に流されるときいて、

もはやこれまでと思い切った。

出家の志を申し出て、法皇からの許しも頂いた。

長年着なれた着衣と引かえに、墨染めの衣に着替えた時は、

さすがに感無量の心持であった。

 

成親の奥方は、

その頃、北山雲林院《うんりんいん》の近くに忍び暮しを続けていた。

唯でさえ住みなれぬ場所はいろいろと心苦労の多いところへ、

世を忍ぶ身はひとしおで、

その日その日をやっとの思いで過している有様であった。

昔は、召使いも家来も多く仕えていたけれど、

平家に、にらまれて以来、

後難を恐れてか訪ねてくる者もなかったが、

唯、一人 源左衛門尉信俊《げんざえもんのじょうのぶとし》だけは、

昔と変りなく、時々訪ねては、何かと面倒を見、

慰めていってくれるのであった。

ある日、奥方は信俊に、

「何でも、殿は一時は備前の児島とかにいられたときいたが、

 近頃は有木の別所におられるという話です。

 何とかしていま一度、お便りを差し上げ、

 できたらあちらの様子も知りたいと思うのだけれど、

 どうにかならないものだろうか?」

と相談を持ちかけた。

「それはよい考えでございます。

 是非私がお使いに参りたいと存じます」

「だが、有木の別所までは、かなりの道のりだそうな、

 どんな危険があるかも知れぬのに」

「何を仰有《おっしゃ》います、

 幼少から殿にはお目をかけて頂いた私、

 未だにそのお声がはっきり耳に残っております。

 ご流罪の時にもお供を願い出て、

 お許しが出なかったのが何よりの心残りでおりました。

 いかなる目にあいましても、

 きっと殿様にお目にかかって参ります。

 是非お文を頂戴いたしとうございます」

うそいつわりのない真心を面《おもて》にみせて、

涙ながらに言う信俊の言葉に、奥方も一方ならず喜んだ。

 奥方始め、若君、姫君の文をふところにして信俊は、

はるばる有木の別所を訪れてきたのであった。

🪻🎼孤独の夕餉 written by H.Lang

 

平家物語41 第2巻 大納言死去②】

難波次郎経遠も、

信俊の志に感じて直ぐに成親の所に案内した。

成親は、丁度今しも、都のことなぞ思い出しつつ、

側の者に、いろいろ想い出話をしていたところだったが、

都から信俊が訪ねて参りました、という知らせに、

「夢であろうか」と疑いながら、

急いで部屋の内へ招じ入れた。

 信俊が一歩足を踏み入れると、先ず粗末な部屋の作りが目に入った。

同時に、昔に変る墨染姿の成親を見出した時は、

いつか目の先《さき》がぼうっとかすんで、

成親の姿もはっきり目に映らぬほどであった。

漸く涙をおさめると、

信俊は奥方からの心のこもった言伝てをこまごまと伝え、

ふところから、

命にも換えてと大事に持ってきた手紙を差しあげた。

 さすがになつかしい奥方の筆跡を手にすると、

成親の手はぶるぶると震えるばかりで、

一向に読み出す事ができない。

ようように手紙を開いても、すぐに涙でかき曇って、

書いてある字もはっきりと見えないのである。

「子供達が、朝晩、余りに貴方の事をお慕いするので、

 私も身を切られるように辛く」

などという文句が、ところどころに読みとれるけれど、

こうやって

目のあたりになつかしい水茎《みずくき》のあとをみると、

その恋しさ、悲しさはつのるばかりで、

主従たがいに涙にむせんで言葉を交すこともできなかった。

 四、五日経った時、信俊は、

「お傍にいて、殿のご最後をお守りしとう思います」

とくり返し経遠に頼んだが、聞き入れられなかった。

成親も、半ば心頼みにしていたのだが、

今はもう諦めていた。

「早く帰った方がよかろう、

 私も近いうちに殺されるらしいが、

 死んだあとは私の後世でも弔っておくれ。

 これは奥方に渡してやってくれ、

 くれぐれも面倒をみてやってくれよ」

信俊が、

「それでは又伺いまする」

といって出ようとすると、成親は、

「しばらく、しばらく、もう一度戻って顔をみせてくれ」

と呼び返し、又暫くして信俊が腰をあげかけると、

何のかのといっては、

呼び戻すのであった。信俊も後髪は引かれる想いだが、

といって、いつまでもこんな事をくりかえしてもいられず、

泣くなく後を振り返り振り返り、別れを告げた。

奥方は、

成親の手紙の中に巻きこまれていた黒髪の一房をみて、

とてもたまらず泣き伏してしまった。

若君、姫君も母に取りすがって、声を立てて泣くのであった。

 

八月の十九日、大納言の死罪が決まった。

備前、備中の境にある吉備《きび》の中山が、

大納言 終焉《しゅうえん》の場所と言われる。

成親の最後の様子はいろいろ伝えられていて、

始め毒殺を計ったが失敗し、遂に二丈のがけの上から突き落し、

下に刺股《ひし》(刃物に柄をつけたもの)

をたててこれで体を貫いて死んだといわれる。

とにかく無慚《むざん》な殺し方であったらしい。

 夫の死を聞いた奥方は、今は生きていても甲斐はないと、

菩提院《ぼだいいん》という寺で、出家し、

成親の冥福を祈って暮すこととなった。

彼女は山城守敦方《やましろのかみあつかた》の娘で

後白河院の寵愛も一きわ深かったほど美しい人で、

後白河院がお気に入りの成親に下さったものであった。

華やかな夢も今は昔の物語、尼姿になった奥方と共に、

幼い子供達も、花を折り水をくんで、

ひたすら父の後世を弔うのであった。

🥀🎼悲しみの果て、見失う光 written by alaki paca

少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋 ぜひご覧ください🪷 https://syounagon.jimdosite.com