🪻【源氏物語339 第13帖 明石 1】雨風は止まず雷鳴もとどろいていた。この頃の夢は怪しいものが来て誘おうとするものばかり。源氏も冷静ではいられなかった。
〜まだ雨風はやまないし、
雷鳴が始終することも同じで幾日かたった。
今は極度に侘《わび》しい須磨の人たちであった。
今日までのことも明日からのことも心細いことばかりで、
源氏も冷静にはしていられなかった。
どうすればいいであろう、
京へ帰ることもまだ免職になったままで
本官に復したわけでもなんでもないのであるから
見苦しい結果を生むことになるであろうし、
まだもっと深い山のほうへはいってしまうことも
波風に威嚇されて恐怖した行為だと人に見られ、
後世に誤られることも堪えられないことであるからと
源氏は煩悶《はんもん》していた。
このごろの夢は怪しい者が来て
誘おうとする初めの夜に見たのと同じ夢ばかりであった。
幾日も雲の切れ目がないような空ばかりをな
がめて暮らしていると京のことも気がかりになって、
自分という者はこうした心細い中で死んで行くのかと
源氏は思われるのであるが、
首だけでも外へ出すことのできない天気であったから
京へ使いの出しようもない。
🪻【源氏物語340 第13帖 明石2】紫の上から手紙がくる。風雨は何かの暗示ではないかと宮中では仁王会をあそばすとのこと。参内もできないので政治も止まっている。
〜二条の院のほうからその中を人が来た。
濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になった使いである。
雨具で何重にも身を固めているから、
途中で行き逢っても人間か何かわからぬ形をした、
まず奇怪な者として追い払わなければならない
下侍に親しみを感じる点だけでも、
自分はみじめな者になったと源氏はみずから思われた。
夫人の手紙は、
申しようのない長雨は
空までもなくしてしまうのではないかという気がしまして
須磨の方角をながめることもできません。
浦風や いかに吹くらん 思ひやる
袖うち濡らし 波間なき頃
というような身にしむことが数々書かれてある。
開封した時からもう源氏の涙は
潮時《しおどき》が来たような勢いで、
内から湧《わ》き上がってくる気がしたものであった。
「京でもこの雨風は天変だと申して、
なんらかを暗示するものだと解釈しておられるようでございます。
仁王会《にんおうえ》を宮中であそばすようなことも承っております。
大官方が参内《さんだい》もできないのでございますから、
政治も雨風のために中止の形でございます」
こんな話を、
はかばかしくもなく
下士級の頭で理解しているだけのことを言うのであるが、
京のことに無関心でありえない源氏は、
居間の近くへその男を呼び出していろいろな質問をしてみた。
🪻【源氏物語341 第13帖 明石3】この世は滅んでいくのではないかと思った。翌日から また、大風が吹いて、海潮が満ち、高く立つ波の音は岩も山も崩してしまうように響いた。
〜「ただ例のような雨が
少しの絶え間もなく降っておりまして、
その中に風も時々吹き出すというような日が
幾日も続くのでございますから、
それで皆様の御心配が始まったものだと存じます。
今度のように地の底までも通るような
荒い雹《ひょう》が降ったり、
雷鳴の静まらないことはこれまでにないことでございます」
などと言う男の表情にも
深刻な恐怖の色の見えるのも源氏をより心細くさせた。
こんなことでこの世は滅んでいくのでないかと
源氏は思っていたが、
その翌日からまた大風が吹いて、海潮が満ち、
高く立つ波の音は岩も山も崩してしまうように響いた。
雷鳴と電光のさすことの烈《はげ》しくなったことは
想像もできないほどである。
この家へ雷が落ちそうにも近く鳴った。
もう理智《りち》で物を見る人もなくなっていた。
🪻【源氏物語342 第13帖 明石4】「住吉の神、この付近の悪天候をお鎮めください。慈悲そのものであなたはいらっしゃるはずですから」と源氏は言って大願を立てた。
〜「私はどんな罪を前生で犯して
こうした悲しい目に逢《あ》うのだろう。
親たちにも逢えず
かわいい妻子の顔も見ずに死なねばならぬとは」
こんなふうに言って歎く者がある。
源氏は心を静めて、
自分にはこの寂しい海辺で
命を落とさねばならぬ罪業《ざいごう》はないわけであると
自信するのであるが、
ともかくも異常である天候のためには
いろいろの幣帛《へいはく》を
神にささげて祈るほかがなかった。
「住吉《すみよし》の神、
この付近の悪天候をお鎮《しず》めください。
真実|垂跡《すいじゃく》の神でおいでになるのでしたら
慈悲そのものであなたはいらっしゃるはずですから」
と源氏は言って多くの大願を立てた。
惟光《これみつ》や良清《よしきよ》らは、
自身たちの命はともかくも源氏のような人が
未曾有《みぞう》な不幸に終わってしまうことが
大きな悲しみであることから、
気を引き立てて、
少し人心地《ひとごこち》のする者は皆命に代えて源氏を救おうと
一所懸命になった。
彼らは声を合わせて仏神に祈るのであった。
🪻【源氏物語343 第13帖 明石5】慈悲をあまねく日本国じゅうに垂れたまい、不幸なる者を救いたまえること数を知らず、今何の報いにて風波の牲となりたまわん。彼らは祈った。
〜「帝王の深宮に育ちたまい、
もろもろの歓楽に驕《おご》りたまいしが、
絶大の愛を心に持ちたまい、
慈悲をあまねく日本国じゅうに垂《た》れたまい、
不幸なる者を救いたまえること数を知らず、
今何の報いにて風波の牲《にえ》となりたまわん。
この理を明らかにさせたまえ。
罪なくして罪に当たり、
官位を剥奪《はくだつ》され、
家を離れ、故郷を捨て、
朝暮歎きに沈淪《ちんりん》したもう。
今またかかる悲しみを見て
命の尽きなんとするは何事によるか、
前生の報いか、この世の犯しか、
神、仏、明らかにましまさば
この憂《うれ》いを息《やす》めたまえ」
🪻【源氏物語344 第13帖 明石6】雷鳴は激しくとどろいて源氏の居間に続いた廊へ落雷した。火が燃え上がって廊は焼けていく。人々は心も肝も皆失ったようになっていた。
〜住吉《すみよし》の御社《みやしろ》のほうへ向いて
こう叫ぶ人々はさまざまの願を立てた。
また竜王《りゅうおう》をはじめ大海の諸神にも
源氏は願を立てた。
いよいよ雷鳴ははげしくとどろいて
源氏の居間に続いた廊へ落雷した。
火が燃え上がって廊は焼けていく。
人々は心も肝《きも》も皆失ったようになっていた。
後ろのほうの
廚《くりや》その他に使っている建物のほうへ源氏を移転させ、
上下の者が皆いっしょにいて泣く声は
一つの大きな音響を作って雷鳴にも劣らないのである。
空は墨を磨《す》ったように黒くなって日も暮れた。
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