🌊【源氏物語330 第12帖 須磨64】罰を受けても悔やまぬと決心して 左大臣家の中将が源氏のもとに来た。長く相見る時を得なかった二人はたまたま得た会合の最初にまず泣いた。
〜源氏が日を暮らし侘《わ》びているころ、
須磨の謫居《たっきょ》へ左大臣家の三位中将が訪ねて来た。
現在は参議になっていて、
名門の公子でりっぱな人物であるから
世間から信頼されていることも格別なのであるが、
その人自身は今の社会の空気が気に入らないで、
何かのおりごとに源氏が恋しくなるあまりに、
そのことで罰を受けても自分は悔やまないと決心して
にわかに源氏と逢うために京を出て来たのである。
親しい友人であって、
しかも長く相見る時を得なかった二人は
たまたま得た会合の最初にまず泣いた。
宰相は源氏の山荘が非常に唐風であることに気がついた。
絵のような風光の中に、
竹を編んだ垣《かき》がめぐらされ、
石の階段、
松の黒木の柱などの用いられてあるのがおもしろかった。
源氏は黄ばんだ薄紅の服の上に、
青みのある灰色の狩衣、
指貫《さしぬき》の質素な装いでいた。
わざわざ都風を避けた服装も
いっそう源氏を美しく引き立てて見せる気がされた。
🌊【源氏物語331 第12帖 須磨65】海人達が貝などを届けによったので話を聞く。小鳥のように多弁である。根本は処世難である。貴公子達は我らも同じだと思った。
〜室内の用具も簡単な物ばかりで、
起臥《きが》する部屋も
客の座から残らず見えるのである。
碁盤、双六《すごろく》の盤、
弾棊《たぎ》の具なども
田舎《いなか》風のそまつにできた物が置かれてあった。
数珠《じゅず》などがさっきまで
仏勤めがされていたらしく出ていた。
客の饗応《きょうおう》に出された膳部《ぜんぶ》にも
おもしろい地方色が見えた。
漁から帰った海人《あま》たちが貝などを届けに寄ったので、
源氏は客といる座敷の前へその人々を呼んでみることにした。
漁村の生活について質問をすると、
彼らは経済的に苦しい世渡りをこぼした。
小鳥のように多弁にさえずる話も
根本になっていることは処世難である、
われわれも同じことであると貴公子たちは憐んでいた。
それぞれに衣服などを与えられた海人たちは
生まれてはじめての生きがいを感じたらしかった。
🌊【源氏物語332 第12帖 須磨66】馬に稲を食わせたりするのが源氏にも客にも珍しかった。幼い夕霧の様子を聞いて源氏は悲しく思う。
〜山荘の馬を幾疋《ひき》も並べて、
それもここから見える倉とか納屋とかいう物から
取り出す稲を食わせていたりするのが源氏にも客にも珍しかった。
催馬楽《さいばら》の飛鳥井《あすかい》を二人で歌ってから、
源氏の不在中の京の話を泣きもし、笑いもしながら、
宰相はしだした。
若君が何事のあるとも知らずに
無邪気でいることが哀れでならないと
大臣が始終 歎《なげ》いているという話のされた時、
源氏は悲しみに堪えないふうであった。
二人の会話を書き尽くすことは
とうていできないことであるから省略する。
🌊【源氏物語333 第12帖 須磨67】二人は眠らずに語り、詩を作った。杯を手にしながら「酔悲泪灑春杯裏」と一緒に歌った。供をしている者たちも皆 涙を流していた。
〜終夜眠らずに語って、そして二人で詩も作った。
政府の威厳を無視したとはいうものの、
宰相も事は好まないふうで、
翌朝はもう別れて行く人になった。
好意がかえってあとの物思いを作らせると言ってもよい。
杯を手にしながら
「酔悲泪灑春杯裏
《ゑひのかなしみのなみだをそそぐはるのさかづきのうち》」
と二人がいっしょに歌った。
供をして来ている者も皆涙を流していた。
双方の家司たちの間に惜しまれる別れもあるのである。
🌊【源氏物語334 第12帖 須磨68】宰相は心を込めた土産を源氏に贈った。源氏は 貴方のそばでいななくようにと黒馬を贈った。
〜朝ぼらけの空を行く雁《かり》の列があった。
源氏は、
故郷《ふるさと》を 何《いづ》れの春か 行きて見ん
羨《うらや》ましきは 帰るかりがね
と言った。
宰相は出て行く気がしないで、
飽かなくに 雁の常世《とこよ》を 立ち別れ
花の都に 道やまどはん
と言って悲しんでいた。
宰相は京から携えて来た心をこめた土産《みやげ》を
源氏に贈った。
源氏からはかたじけない客を送らせるためにと言って、
黒馬を贈った。
「妙なものを差し上げるようですが、
ここの風の吹いた時に、
あなたのそばで嘶《いなな》くようにと思うからですよ」
と言った。
珍しいほどすぐれた馬であった。
🌊【源氏物語335 第12帖 須磨69】「これは形見だと思っていただきたい」宰相は大切な笛を源氏に贈る。友情がしばらく慰めたあとの源氏はまた寂しい人になった。
〜「これは形見だと思っていただきたい」
宰相も名高い品になっている笛を一つ置いて行った。
人目に立って問題になるようなことは
双方でしなかったのである。
上って来た日に帰りを急ぎ立てられる気がして、
宰相は顧みばかりしながら座を立って行くのを、
見送るために続いて立った源氏は悲しそうであった。
「いつまたお逢いすることができるでしょう。
このまま無限にあなたが捨て置かれるようなことはありません」
と宰相は言った。
「雲近く 飛びかふ鶴《たづ》も 空に見よ
われは春日の 曇りなき身ぞ
みずからやましいと思うことはないのですが、
一度こうなっては、
昔のりっぱな人でももう一度世に出た例は少ないのですから、
私は都というものをぜひまた見たいとも願っていませんよ」
こう源氏は答えて言うのであった。
「たづかなき 雲井に独《ひと》り音《ね》をぞ鳴く
翅《つばさ》並べし 友を恋ひつつ
失礼なまでお親しくさせていただいたころのことを
もったいないことだと後悔される事が多いのですよ」
と宰相は言いつつ去った。
友情がしばらく慰めたあとの源氏はまた寂しい人になった。
🌊【源氏物語336 第12帖 須磨70】巳の日に御禊をする事にした。仮の禊場を作り、旅の陰陽師を雇って祓いをさせた。船にやや大きい祓いの人形を乗せて流した。
〜今年は三月の一日に巳《み》の日があった。
「今日です、お試みなさいませ。
不幸な目にあっている者が御禊《みそぎ》をすれば
必ず効果があるといわれる日でございます」
賢がって言う者があるので、
海の近くへ
また一度行ってみたいと思ってもいた源氏は家を出た。
ほんの幕のような物を引きまわして
仮の御禊場《みそぎば》を作り、
旅の陰陽師《おんみょうじ》を雇って
源氏は禊《はら》いをさせた。
船にやや大きい禊いの人形を乗せて流すのを見ても、
源氏はこれに似た自身のみじめさを思った。
知らざりし 大海の原に 流れ来て
一方にやは 物は悲しき
と歌いながら沙上《しゃじょう》の座に着く源氏は、
こうした明るい所ではまして水ぎわだって見えた。
少し霞《かす》んだ空と同じ色をした海が
うらうらと凪《な》ぎ渡っていた。
果てもない天地をながめていて、
源氏は過去未来のことがいろいろと思われた。
🌊【源氏物語337 第12帖 須磨71】海のほうは蒲団を拡げたように ふくれながら光っていて、雷鳴と電光が襲うてきた。
〜八百《やほ》よろづ 神も憐《あは》れと 思ふらん
犯せる罪の それとなければ
と源氏が歌い終わった時に、
風が吹き出して空が暗くなってきた。
御禊《みそぎ》の式もまだまったく終わっていなかったが
人々は立ち騒いだ。
肱笠雨《ひじがさあめ》というものらしく
にわか雨が降ってきてこの上もなくあわただしい。
一行は浜べから引き上げようとするのであったが
笠を取り寄せる間もない。
そんな用意などは初めからされてなかった上に、
海の風は何も何も吹き散らす。
夢中で家のほうへ走り出すころに、
海のほうは蒲団《ふとん》を拡《ひろ》げたように
腫《ふく》れながら光っていて、
雷鳴と電光が襲うてきた。
すぐ上に落ちて来る恐れも感じながら
人々はやっと家に着いた。
🌊【源氏物語338 第12帖 須磨72 完】人間でない姿の者が来て「王様が召していらっしゃる」と言いながら、源氏を求めるようにしてその辺を歩きまわる夢を見た。
〜「こんなことに出あったことはない。
風の吹くことはあっても、
前から予告的に天気が悪くなるものであるが、
こんなににわかに暴風雨になるとは」
こんなことを言いながら山荘の人々は
この天候を恐ろしがっていたが雷鳴もなおやまない。
雨の脚《あし》の当たる所はどんな所も
突き破られるような強雨《ごうう》が降るのである。
こうして世界が滅亡するのかと皆が心細がっている時に、
源氏は静かに経を読んでいた。
日が暮れるころから雷は少し遠ざかったが、
風は夜も吹いていた。
神仏へ人々が大願を多く立てたその力の顕《あら》われが
これであろう。
「もう少し暴風雨が続いたら、
浪《なみ》に引かれて海へ行ってしまうに違いない。
海嘯《つなみ》というものはにわかに起こって
人死《ひとじ》にがあるものだと聞いていたが、
今日のは雨風が原因になっていてそれとも違うようだ」
などと人々は語っていた。
夜の明け方になって皆が寝てしまったころ、
源氏は少しうとうととしたかと思うと、
人間でない姿の者が来て、
「なぜ王様が召していらっしゃるのにあちらへ来ないのか」
と言いながら、
源氏を求めるようにしてその辺を歩きまわる夢を見た。
さめた時に源氏は驚きながら、
それではあの暴風雨も海の竜王《りゅうおう》が
美しい人間に心を惹《ひ》かれて
自分に見入っての仕業《しわざ》であったと気がついてみると、
恐ろしくてこの家にいることが堪えられなくなった。
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