少将と康頼の熊野詣では、異常な熱心さで続けられた。
時には、徹夜で祈願をすることもあった。
ある日いつもの通り、夜になって、二人は一晩中、
今様《いまよう》などを歌い続けて、
さすがに明け方疲れ果てて眠ってしまったことがある。
康頼も知らずしらずの内にまどろんでいたらしい。
沖の方から白帆をかけた小舟がやってきて、
中から紅の袴《はかま》をつけた女達が三十人ばかり、
岸にあがってきて鼓をうち、
声を合せて今様を歌い出したのであった。
よろずの仏の願《がん》よりも
千手《せんじゅ》の誓《ちかい》ぞ頼もしき。
枯れたる草木も忽ちに 花咲き実なるとこそきけ。
三べんほど、くり返すと、
その姿はかき消すようにみえなくなった。
「あれ、女達が」
自分の声で目を覚した康頼は、
始めて夢であったことに気がついて不思議な気がした。
「どうやら、あれは竜神の化身であったらしいが、
三所権現の内、西の御前と申すは、千手観音がご本体、
竜神は千手観音の守護神じゃ。
これは、熊野権現がわれらの願を
おきき入れになったしるしかも知れぬぞ」
「今後は一層の精進をいたそう」
暫くして、又ある晩夢を見た。
沖から吹いてきた風に、二枚の木の葉が舞い下りてきて、
二人の袂《たもと》に吹きかけた。手にとってみると、
熊野の南木《なぎ》の葉である。
虫に食われて、ところどころ穴のあいているのが、
よくみると言葉になっていた。
千早ぶる神に祈りのしげければ
などか都へ帰らざるべき
少将と康頼は、夢から覚めたあと、
いつまでもそのことを話し合っては、勇気づけられたのである。
康頼は、何としても故郷の恋しさに耐えられなかったので、
せめてもの心の足しにと、千本、卒都婆《そとば》を作り、
梵字、年号、月日、それに、平判官康頼と署名し、
二首の歌を書きつけた。
薩摩潟沖の小島に我ありと
親には告げよ八重の潮風
思い遣《や》れしばしと思う旅だにも
なお故郷《ふるさと》は恋しきものを
その卒都婆を、浜辺に持ってゆくと、
「八百よろずの諸々の神々よ、願わくは、一本なりと都に伝えて下さい」
と祈りながら、寄せては返す波のたびごとに、
そっと卒都婆を海へ送り出した。卒都婆を作っては流し、
作っては流ししていたから、
長い間には、卒都婆も随分の数になったわけである。
※お詫び
千早ぶる神に祈りのしげければ
などか都へ帰らざるべき の部分ですが、
都へ を 都にと読んでいます。すみません🙇
🪷🎼Bloom inside written by Anonyment
康頼の真心が通じたのか、神明のご加護があったのか、
その内の一本が安芸《あき》の厳島《いつくしま》に
流れついたのであった。
康頼の知り合いのある僧が、
便船でもあったら鬼界ヶ島にでも渡り、
康頼の消息を訪ねてみたいと思い立ち、
西国修行に出かけて厳島に参詣した。
厳島大明神は、元々海に縁故のある神で、
娑竭羅《しゃかつら》竜王の第三の姫宮といわれ、
今日まで、いろいろ不思議な霊顕のあったことを聞かされて、
僧は暫く止まって参籠することにした。
厳島大明神は、八つの神殿から成り、海の際に臨んでいた。
夜になると月が昇り、その澄んだ影は、
水にも、砂浜にも、美しい光を投げていた。
満潮になると、大鳥居も、朱塗りの玉垣も、
瑠璃《るり》色を帯びて青白く光った。
引潮になると、社前の白砂には霜が降りたようにみえた。
その神秘的な美しさに我れ知らずうっとりとしていた僧が、
気がついてみると、
波の合い間合い間に漂い流れている藻くずの間に
何やら妙なものが浮いていた。
手に取って拾い上げてみると卒都婆である。
「何だってこんなものが」
と思いながら、よくよく眺めてみると、
それが例の康頼が流した内の一つなのである。
文字を彫りこんでおいたものが、
波に洗われても消えずにそのまま残っているのであった。
僧は早速、この卒都婆を持って急いで京に行き、
一条の北、紫野《むらさきの》に忍び住む
康頼の老母と妻子にみせたのであった。
「何と不思議な、
いくらでも海辺はあるものをよりによって厳島とは、
それにしても、もろこしのあたりにも流れつかずに、
こんな所まで流れてきて、
又々私達に悲しみを憶い出させようというのか」
老母は卒都婆を手にして、
しみじみと眺めながらつぶやいた。
この事が法皇のお耳にも入り、
「何? 彼らはまだ生きていたか、何と哀れなことよ」
と、また更に涙を流しておいでになった。
法皇は、更に、重盛にこの事を伝え、
遂に卒都婆は、清盛の手にも渡った。
さすがに木石でもない清盛も、
心中同情を禁じ得なかったらしく、
憐れみの言葉をもらしたのであった。
🌊🎼ぼくは夏色、きみは夢の中、 written by ともじろう
【平家物語49 第2巻 蘇武〈そぶ〉】
この話は、洛中に広がっていった。
特に、清盛までが哀れに思ったというので、
いつしか康頼の歌は、京の、上下、老いも若きもが、
鬼界ヶ島流人の歌として口ずさむようになった。
千本作った卒都婆だから、それ程大きいわけはなく、
むしろ小さなものだったろうに、
波に押し流されることもなく、
はるばる万里の波濤を越えて故郷に届いたのは、
やはり康頼の一念が通じたのかも知れない。
ところでこれに似たような話が、中国の故事にある。
昔、漢の武帝《ぶてい》が胡国《ここく》を攻めた時、
始めは、李少卿《りしょうけい》を大将として、
三十万騎を差し向けたが武運つたなく敗れ、
李少卿は捕虜になった。
次に蘇武を大将として五十万騎を派遣したが、
これも散々の敗けいくさである。
六千余人が生捕られ、その中に蘇武も含まれていた。
胡国は、
彼らのうち重立った者六百三十余人の片足を切って追放した。
その殆んどが死んでしまった中で、蘇武一人は生き残った。
不自由な片足で、野山の草の実を拾い、野草を食べ、
どうにか生き長らえていた。
野原に降り立つ雁の群さえ、蘇武の姿をみて、
逃げるものは一匹もいなかった。
この雁は秋になるとここを去って
遠く漢の都へ飛んでゆくことに気のついた蘇武は、
一羽の雁の足に手紙を結びつけて、
心から漢王の手に渡してくれるように祈った。
漢の都では、ある日漢王が上林苑にいる時、
一群の雁の列から一羽がさっと舞い下りて、手紙を落した。
不思議なこともあるものかなとそれを開いてみると、
「巌窟《がんくつ》にとじこめられて三年、
今では、荒れ果てた曠野《こうや》に捨てられ、
一本足の身で生きています。
たとえこの身は胡の国で死んでも、
魂は決して君のお側を離れぬつもりです」
とあった。
「何と、まだ蘇武が生きていた、これはまさしく蘇武の筆跡」
驚いた漢王は、今度は百万の大軍を胡国に差し向けた。
今度は漢の勝利となったので、
蘇武は、びっこをひきひき漢軍の陣営を訪ね、
蘇武であることを名乗った。
十九年の後、蘇武はやっと故郷へ帰ることができたのである。
漢王は大いにその志に感じ、高官に任じ、
大国を与えて労をねぎらった。
一方李少卿も、国へ帰りたい心は同じだったが、
胡王が許さないので悶々の日を送っていた。
そうとも知らない漢王は、不忠の男だ、
と死んでいた両親を掘りおこしてむちでうったり、
親類縁者をそれぞれ罪に服させたりした。
このことを伝えきいた李少卿は、恨み悲しみはしたが、
なお故郷恋しの一念やみがたく、筆をとって、
不忠ではないことをこまごまと記して送った。
漢王はそれを読んで、
自分の行為をひどく悔やんだそうである。
漢国の蘇武は、雁に便りを託し、
我が国の康頼は、波に便りを託して想いを故郷に告げた。
上代と末代、胡国と鬼界ヶ島と、土地こそ変れ、
心は相似たようなものである。
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