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いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【🌊10分で聴く平家物語8】🦌鹿ケ谷①〈ししがたに〉〜単純な出世競争のゴタゴタが なんだかえらい方向に😿鹿ケ谷の山荘の陰謀‥酔っ払って徳利🍶転けて喜んで踊ってるうちが良かったよ‥by🐈‍⬛

平家物語 第1巻 🦌鹿ケ谷 ししがたに】

🦌鹿ケ谷 🦌

思い掛けぬ出来事があって、
天皇元服の決め事も伸びのびになっていたが、

二十五日に無事に行われた。

基房は、太政大臣に昇任したが、

何となく割り切れない昇級でもあった。

年も明けて、嘉応三年正月、無事に元服が済み、

清盛の娘の徳子(後の建礼門院)が十五歳で女御になった。

 内大臣、左大将、藤原|師長《もろなが》が、左大将を辞任した。

この顕職の後釜《あとがま》をねらって、

猛烈な就職運動が始ったのである。

即ち、徳大寺大納言実定《とくだいじのだいなごんじってい》、

花山院中納言兼雅《かざんいんのちゅうなごんかねまさ》、

新大納言成親《しんだいなごんなりちか》(故中御門藤中納言家成の三男)

の三人がそれぞれ名乗りをあげていたが、

中でも、家柄はよし、才能もあり、

末は大臣大将と噂されていたのは徳大寺大納言で、

いわば本命であった。

 後白河院の後楯《うしろだて》があるものの、どうも形勢不利とみて、

この上は、天の助けにすがるよりほかはないと思い立った成親は、

男山《おとこやま》の石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》に、

百人の坊主を頼んで、七日間、大般若経《だいはんにゃきょう》を、

読経させた。

その最中、八幡宮の一隅にある、

甲良大明神《こうらだいみょうじん》の前の橘《たちばな》の木に

山鳩《やまばと》が三羽とんでくると、

お互に食い殺し合って死んでしまった。

とにかく鳩は、

八幡 大菩薩の第一の使者と信じられているので皆薄気味悪がって、

早速、占いをたててみると、

「天下騒乱の気配濃厚、臣下はよろしく謹慎すべし」

ということである。

 成親は、これでこりたかと思ったが、

占いよりも現実の官位に余程執着があるらしく、

今度は夜になると、賀茂の上社《かみやしろ》へ七日続けて参詣を始めた。

七日目の晩、家で寝ていると夢をみた。

上社の御宝殿《ごほうでん》の戸が開いて、さわやかな声がした。

桜花かもの川風うらむなよ

  散るをばえこそとどめざりけれ

という歌がきこえてきた。

これだけとめだてされても成親の野望は、一層激しくなるばかりである。

今度は、御宝殿後の大杉の洞穴《ほらあな》に

祈祷師を一人とじこめて、大願成就を百日祈らせた。

すると、ある日、轟《とどろ》く様な雷が鳴り出したかと思うと、

たちまち大杉に落ちかかり、

そのために、社殿の方へ燃え移りそうになったため、

神官達がかけつけ、漸く事なきを得た。

怒ったのは神官達で、外の騒ぎもものかは、

未だに祈祷を続けている祈祷師を、

洞穴から引ずり出すと、文句も言わせず、追い出してしまった。

 

これだけ、手を尽した猛運動にも拘《かかわ》らず、

ふたをあけてみると、

それは、成親の思惑をはるかに通り越したものであった。

左大将は大納言右大将の重盛がなり、

中納言宗盛は、一躍右大将になっていた。

とにかく当時の人事は、全く平家の独壇場であり、

摂政関白の意向はもちろん、

後白河院さえ無視されていた状態だったから、

結果としては、むしろ、当然過ぎるほどの任命だった。

唯誰もがその任官を、疑いなく思っていた徳大寺大納言は、

さすがに、

平家専横の世界に愛想がつきたのか大納言をやめて、

家にひきこもってしまった。

 

一方、成親の不満はつのるばかりであった。

席次が上の徳大寺大納言や花山院に先を越されることは、

彼としても仕方ないとは思っていたものの、

宗盛が右大将になるだけは、

どうにも我慢のならない事実であった。

彼の気持の中に、平家への憎悪が次第に厚みをなし、

幅をひろげ、形を整えてくるのは、

或は、当然の事だったかも知れない。

しかし、世間はそうばかりもみないもので、

むしろ、今までの成親が平家から受けた恩義の数々をあげ、

重盛とは、平治の乱以来、

因縁浅からぬ関係にある事を言い立て、

彼の現実的なえげつなさを責めるのであった。

🌊🎼沈む written by ハシマミ

 

🫎鹿ケ谷🫎

ところで、成親と、動機こそ違え、志を同じくする者は、

まだ幾人かあった。

彼らがいつも好んで寄り集りの場所にしたのは、鹿ヶ谷にある、

これも同志の一人 俊寛《しゅんかん》の山荘である。

ここは、東山のふもとにあり、

後は三井寺に続いた、要害堅固なところで、

こういった陰謀を企むには、まさにもってこいの場所だったのである。

 ある晩、後白河院が、お忍びでここにお出でになり、

話がいつか、平家に対する不満から次第に、

平家を葬る具体的な話になりそうになってきた。

後白河院のお供で席に連っていた浄憲法印《じょうけんほういん》は

思慮深い男であったから、

「まだこの種の話し合いはすべきではない。

 それに、こう人数が多くては、どんな事でもれるかわからない。

 とにかく、事は慎重にはかるべきだ」

と一座を眺め廻していった。

おたがいが、まだ腹のさぐり合いをしている最中だから、

浄憲の言葉は、尤《もっと》もなのだが、

他の連中は、何となくしゃくにさわる。

成親などは、顔面蒼白《そうはく》になって立ち上り、

浄憲につめ寄ろうとした拍子に、

着物の袖がふれて前にあった瓶子《へいし》が倒れた。

「どうしたんだ、成親」

後白河院も、座の白《しら》けた様子に、

少し腹立しそうに成親に言った。

「いやあ、平氏が倒れたのです。目出度い事ではありませぬか」

当意即妙の思いつきである。

途端に、院の顔色がさっと晴れやかになった。

「何か茶番でもやらぬか」

院のお声がかりで、

平判官康頼《へいはんがんやすより》がついと前へ出てきた。

「余りに、へいしが多過ぎて、酔いの廻るの早いこと」

「はて、さて、どうしたものじゃろうか」

俊寛が直ぐ後をうけていった。

「首を取るのが一番じゃ」

西光《さいこう》法師は、そういうとたちまち、

瓶子の頭を切り落してしまった。

 これには、一座が拍手かっさいで、

後白河院もすこぶる機嫌がよかった。

浄憲だけが、余りの他愛のなさに、怒りもできず、

押し黙っているだけであった。

 これまでのところ、

名前のわかっている陰謀荷担者は、

近江《おうみの》中将入道 蓮浄《れんじょう》俗名 成正《なりまさ》、

法勝寺執行《ほっしょうじのしゅぎょう》俊寛 僧都《そうず》、

山城守基兼《やましろのかみもとかね》、

式部大輔雅綱《しきぶのたいふまさつな》、

平判官康頼、宗判官信房《そうはんがんのぶふさ》、

新平判官資行《しんへいはんがんすけゆき》、

摂津国《せっつのくに》源氏 多田蔵人行綱《ただのくらんどゆきつな》

といった連中で、他に北面の武士が多かった。

 この中で、俊寛というのは、

京極源大納言雅俊《きょうごくのげんだいなごんがしゅん》の孫であるが、

この雅俊が、奇行の多い変人として知られていた。

武士でもないのに、気性の激しい、怒りっぽい男で、

むしゃくしゃしてくると、

自分の屋敷の前に人を通させないというような、とにかく変った男だった。

この祖父の血は、俊寛にも脈々とつづいていたらしく、

僧侶といっても、頭を丸めているだけの話で、

彼は荒々しい気性と言い、人を喰った傲慢《ごうまん》さと言い、

祖父そっくりで、陰謀好きの事件屋であった。

 この謀みに多く加わっていた北面の武士とは、

白河院の時に始めて置かれたものだが、

この時代になると、相当羽振りをきかしたもので、

中には、五位以上に叙せられ、昇殿を許された者もあり、

公卿を公卿とも思わぬ連中が多かった。

中には、知勇に優れ、実力で地位をかためてゆく者も何人かあったが、

少納言入道信西《しょうなごんにゅうどうしんぜい》の家来で

師光《もろみつ》、成景《なりかげ》等も、

ひときわ目立った才能のある武士で、

それぞれ、左衛門尉《さえもんのじょう》、右衛門尉になったが、

信西が殺された時、同時に出家して名を改めた。

この師光が、西光であり、成景が西景《さいけい》である。

🌿🎼danakil written by ハシマミ

 

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