🌺【源氏物語 19 第2帖 箒木〈ははきぎ〉】
「その時分にまたもう一人の情人がありましてね、
身分もそれは少しいいし、 才女らしく歌を詠《よ》んだり、
達者に手紙を書いたりしますし、
音楽のほうも相当なものだったようです。
感じの悪い容貌《きりょう》でもありませんでしたから、
やきもち焼きのほうを世話女房にして置いて、
そこへはおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよ。
あの女が亡くなりましたあとでは、
いくら今さら愛惜しても死んだものはしかたがなくて、
たびたびもう一人の女の所へ行くようになりますと、
なんだか体裁屋で、風流女を標榜している点が気に入らなくて、
一生の妻にしてもよいという気はなくなりました。
あまり通わなくなったころに、
もうほかに恋愛の相手ができたらしいのですね、
十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、
ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗りました。
私はその晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと思っていたのです。
途中でその人が、
『今夜私を待っている女の家があって、
そこへちょっと寄って行ってやらないでは気が済みませんから』
と言うのです。
私の女の家は道筋に当たっているのですが、
こわれた土塀から池が見えて、
庭に月のさしているのを見ると、
私も寄って行ってやっていいという気になって、
その男の降りた所で私も降りたものです。
その男のはいって行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。
初めから今日の約束があったのでしょう。
男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、
門から近い廊《ろう》の室の縁側に腰を掛けて、
気どったふうに月を見上げているんですね。
それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、
風で紅葉《もみじ》がたくさん降ってくるのですから、
身にしむように思うのも無理はないのです。
男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に
『飛鳥井《あすかゐ》に 宿りはすべし 蔭《かげ》もよし』
などと歌うと、
中ではいい音のする倭琴《やまとごと》を
きれいに弾いて合わせるのです。
相当なものなんですね。
律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾《みす》の中から聞こえるのも
はなやかな気のするものですから、
明るい月夜にはしっくり合っています。
男はたいへんおもしろがって、
琴を弾いている所の前へ行って、
『紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。
あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』
などといやがらせを言っています。
菊を折って行って、
『琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける。だめですね』
などと言って また
『いい聞き手のおいでになった時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』
こんな嫌味《いやみ》なことを言うと、
女は作り声をして
『こがらしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなき』
などと言ってふざけ合っているのです。
私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、
今度は十三絃《げん》を派手《はで》に弾き出しました。
才女でないことはありませんがきざな気がしました。
遊戯的の恋愛をしている時は、
宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、
それだけでいいのですが、
時々にもせよ愛人として通って行く女が
そんなふうではおもしろくないと思いまして、
その晩のことを口実にして別れましたがね。
この二人の女を比べて考えますと、
若い時でさえもあとの風流女のほうは
信頼のできないものだと知っていました。
もう相当な年配になっている私は、
これからはまたそのころ以上にそうした
浮華なものがきらいになるでしょう。
いたいたしい萩《はぎ》の露や、
落ちそうな笹の上の霰《あられ》などにたとえていいような
艶《えん》な恋人を持つのがいいように
今あなたがたはお思いになるでしょうが、
私の年齢まで、
まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、
私が申し上げておきますが、
風流好みな多情な女には気をおつけなさい。
三角関係を発見した時に夫の嫉妬で問題を起こしたりするものです」
左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。
例のように中将はうなずく。
少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思うらしい。
あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。
🌺【源氏物語 20 第2帖 箒木 9】
「私もばか者の話を一つしよう」
中将は前置きをして語り出した。
「私がひそかに情人にした女というのは、
見捨てずに置かれる程度のものでね、
長い関係になろうとも思わずにかかった人だったのですが、
馴《な》れていくとよい所ができて心が惹《ひ》かれていった。
たまにしか行かないのだけれど、
とにかく女も私を信頼するようになった。
愛しておれば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、
自分のことだけれど気のとがめる時があっても、
その女は何も言わない。
久しく間を置いて逢《あ》っても
始終来る人といるようにするので、
気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。
父親もない人だったから、
私だけに頼らなければと思っている様子が
何かの場合に見えて可憐《かれん》な女でした。
こんなふうに穏やかなものだから、
久しく訪《たず》ねて行かなかった時分に、
ひどいことを私の妻の家のほうから、
ちょうどまた
そのほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。
私はあとで聞いたことなんだ。
そんなかわいそうなことがあったとも知らず、
心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、
長く行きもしないでいると、
女はずいぶん心細がって、
私との間に小さな子なんかもあったもんですから、
煩悶《はんもん》した結果、
撫子《なでしこ》の花を使いに持たせてよこしましたよ」
中将は涙ぐんでいた。
「どんな手紙」と源氏が聞いた。
「なに、平凡なものですよ。
『山がつの垣《かき》は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露』ってね。
私はそれで行く気になって、
行って見ると、
例のとおり穏やかなものなんですが、
少し物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、
そのころの虫の声と同じような力のないふうでいるのが、
なんだか小説のようでしたよ。
『咲きまじる花は何《いづ》れとわかねどもなほ常夏《とこなつ》にしくものぞなき』
子供のことは言わずに、
まず母親の機嫌《きげん》を取ったのですよ。
『打ち払ふ袖《そで》も露けき常夏に嵐《あらし》吹き添ふ秋も来にけり』
こんな歌をはかなそうに言って、
正面から私を恨むふうもありません。
うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。
恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、
私は安心して帰って来て、
またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。
まだ生きておれば相当に苦労をしているでしょう。
私も愛していたのだから、
もう少し私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、
そうしたみじめな目に逢《あ》いはしなかったのです。
長く途絶えて行かないというようなこともせず、
妻の一人として待遇のしようもあったのです。
撫子の花と母親の言った子もかわいい子でしたから、
どうかして捜し出したいと思っていますが、
今に手がかりがありません。
これはさっきの話のたよりない性質の女にあたるでしょう。
素知らぬ顔をしていて、
心で恨めしく思っていたのに気もつかず、
私のほうではあくまでも愛していたというのも、
いわば一種の片恋と言えますね。
もうぼつぼつ今は忘れかけていますが、
あちらではまだ忘れられずに、
今でも時々はつらい悲しい思いをしているだろうと思われます。
これなどは男に永久性の愛を求めようとせぬ態度に出るもので、
確かに完全な妻にはなれませんね。
だからよく考えれば、左馬頭のお話の嫉妬《しっと》深い女も、
思い出としてはいいでしょうが、今いっしょにいる妻であってはたまらない。
どうかすれば断然いやになってしまうでしょう。
琴の上手《じょうず》な才女というのも浮気《うわき》の罪がありますね。
私の話した女も、
よく本心の見せられない点に欠陥があります。
どれがいちばんよいとも言えないことは、
人生の何のこともそうですがこれも同じです。
何人かの女からよいところを取って、
悪いところの省かれたような、
そんな女はどこにもあるものですか。
吉祥天女《きちじょうてんにょ》を恋人にしようと思うと、
それでは仏法くさくなって困るということになるだろうからしかたがない」
中将がこう言ったので皆笑った。
🌺【源氏物語 21 第2帖 箒木10】
「式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだね」
と中将が言い出した。
「私どもは下の下の階級なんですよ。
おもしろくお思いになるようなことがどうしてございますものですか」
式部丞《しきぶのじょう》は話をことわっていたが、
頭中将《とうのちゅうじょう》が本気になって、早く早くと話を責めるので、
「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。
まだ文章生《もんじょうせい》時代のことですが、
私はある賢女の良人《おっと》になりました。
さっきの左馬頭《さまのかみ》のお話のように、
役所の仕事の相談相手にもなりますし、
私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていてくれました。
学問などはちょっとした博士《はかせ》などは恥ずかしいほどのもので、
私なんかは学問のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。
それはある博士の家へ弟子になって通っておりました時分に、
先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、
ちょっとした機会をとらえて接近してしまったのです。
親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出して
白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、
実は私はあまり気が進みませんでした。
ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。
先方では私をたいへんに愛して、よく世話をしまして、
夜分|寝《やす》んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、
官吏としての心得方などを言ってくれたりいたすのです。
手紙は皆きれいな字の漢文です。
仮名なんか一字だって混じっておりません。
よい文章などをよこされるものですから
別れかねて通っていたのでございます。
今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、
そんな細君を持つのは、学問の浅い人間や、
まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだと
その当時思っておりました。
またお二方のようなえらい貴公子方には
そんなずうずうしい先生細君なんかの必要はございません。
私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、
気に入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、
男から言えばあるがままの女でいいのでございます」
これで式部丞《しきぶのじょう》が口をつぐもうとしたのを見て、
頭中将は今の話の続きをさせようとして、
「とてもおもしろい女じゃないか」
と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、
自身をばかにしたふうで話す。
「そういたしまして、
その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、
その近辺に用のございましたついでに、寄って見ますと、
平生の居間の中へは入れないのです。
物越しに席を作ってすわらせます。
嫌味を言おうと思っているのか、ばかばかしい、
そんなことでもすれば別れるのに
いい機会がとらえられるというものだと
私は思っていましたが、賢女ですもの、
軽々しく嫉妬《しっと》などをするものではありません。
人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしやしません。
しかも高い声で言うのです。
『月来《げつらい》、風病《ふうびょう》重きに堪えかね
極熱《ごくねつ》の草薬を服しました。
それで私はくさいのでようお目にかかりません。
物越しででも何か御用があれば承りましょう』
ってもっともらしいのです。
ばかばかしくて返辞ができるものですか、
私はただ『承知いたしました』と言って帰ろうとしました。
でも物足らず思ったのですか『このにおいのなくなるころ、お立ち寄りください』と
また大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の毒ですが、
ぐずぐずもしていられません。
なぜかというと草薬の蒜《ひる》なるものの臭気がいっぱいなんですから、
私は逃げて出る方角を考えながら、
『ささがにの振舞《ふるま》ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき。
何の口実なんだか』
と言うか言わないうちに走って来ますと、
あとから人を追いかけさせて返歌をくれました。
『逢《あ》ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩《まば》ゆからまし』
というのです。歌などは早くできる女なんでございます」
式部丞の話はしずしずと終わった。
貴公子たちはあきれて、
「うそだろう」
と爪弾《つまはじ》きをして見せて、式部をいじめた。
「もう少しよい話をしたまえ」
「これ以上珍しい話があるものですか」
式部丞は退《さが》って行った。
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