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いにしえの都の高貴なネコ様のつぶやき🌸

我は、いにしえの都の高貴なネコ様🐱マロン🍀 下僕1号👩 下僕2号👨‍💼と ゆるりと暮らしておる。そんな我のつぶやきである🐱💖 

【10分で聴く源氏物語 第10帖 賢木4〈さかき〉】 父君の桐壺院 崩御😢右大臣の力強くなり、源氏の邸に宿直をする人も あまり見かけなくなった‥人というのは現金なもんだ、by 🐱

🌔【源氏物語202 第十帖 賢木14】立派でお美しく見える朱雀帝に韻は御満足をお感じなる。院は種々と御教訓をお残しになる。

〜風采《ふうさい》もごりっぱで、 

以前よりもいっそうお美しくお見えになる帝に 

院は御満足をお感じになり、

 頼もしさもお覚えになるのであった。 

高貴な御身でいらせられるのであるから、

感情のままに

父帝のもとにとどまっておいでになることはできない。

 その日のうちに還幸されたのであるから、 

お二方のお心は、

お逢いになったあとに長く悲しみが残った。

東宮も同時に行啓《ぎょうけい》になるはずであったが

たいそうになることを思召《おぼしめ》して 

別の日に院のお見舞いをあそばされた。

御年齢以上に

大人らしくなっておいでになる愛らしい御様子で、

しばらくぶりでお逢いになる喜びが勝って、 

今の場合も深くおわかりにならず、

無邪気にうれしそうにして院の前へおいでになったのも

哀れであった。

その横で中宮が泣いておいでになるのであるから、 

院のお心はさまざまにお悲しいのである。

種々と御教訓をお残しになるのであるが、 

幼齢の東宮にこれがわかるかどうかと疑っておいでになる 御心から

そこに寂しさと悲しさがかもされていった。 

源氏にも朝家《ちょうけ》の政治に携わる上に 

心得ていねばならぬことをお教えになり、

東宮をお援《たす》けせよということを

 繰り返し繰り返し仰せられた。

 

🌔【源氏物語203 第十帖 賢木15】桐壺院 崩御。御人徳の深い君にお別れして多数の人が悲しんだ。

〜夜がふけてから東宮はお帰りになった。

還啓に供奉《ぐぶ》する公卿の多さは

行幸にも劣らぬものだった。

御秘蔵子の東宮のお帰りになったのちの院の御心は

最もお悲しかった。

太后もおいでになるはずであったが、

中宮がずっと院に添っておいでになる点が御不満で、

躊躇《ちゅうちょ》あそばされたうちに院は崩御になった。

御仁慈の深い君にお別れして

どんなに多数の人が悲しんだかしれない。

院の御位《みくらい》にお変わりあそばしただけで、

政治はすべて思召しどおりに行なわれていたのであるから、

今の帝はまだお若くて外戚の大臣が人格者でもなかったから、

その人に政権を握られる日になれば、

どんな世の中が現出するであろうと

官吏たちは悲観しているのである。

院が最もお愛しになった中宮や源氏の君は

まして悲しみの中におぼれておいでになった。

 

🌔【源氏物語204 第十帖 賢木16】源氏は厭世的になり僧になろうかとも思うが、守るべき人たちのことを考えると実現できることではなかった。

崩御後の御仏事なども多くの御遺子たちの中で

源氏は目だって誠意のある弔い方をした。

それが道理ではあるが源氏の孝心に同情する人が多かった。

喪服姿の源氏がまた限りもなく清く見えた。

去年今年と続いて不幸にあっていることについても

源氏の心は厭世《えんせい》的に傾いて、

この機会に僧になろうかとも思うのであったが、

いろいろな絆《ほだし》を持っている源氏に

それは実現のできる事ではなかった。

 

四十九日までは女御《にょご》や更衣たちが

皆院の御所にこもっていたが、

その日が過ぎると散り散りに別な実家へ

帰って行かねばならなかった。

これは十月二十日のことである。

この時節の寂しい空の色を見ては

だれも世がこれで終わっていくのではないかと

心細くなるころである。

 

中宮は最も悲しんでおいでになる。

太后の性格をよく知っておいでになって、

その方の意志で動く当代において、

今後は

どんなつらい取り扱いを受けねばならぬかというお心細さよりも、

またない院の御愛情に包まれてお過ごしになった過去を

お忍びになる悲しみのほうが大きかった。

しかも永久に院の御所で人々とお暮らしになることはできずに、

皆帰って行かねばならぬことも宮のお心を寂しくしていた。

 

🌔【源氏物語205 第十帖 賢木17】兵部卿の宮は、雪にしおれて下葉の枯れたのを見て、「蔭ひろみ 頼みし松や 枯れにけん下葉散り行く年の暮かな」とお歌いになる。

中宮は三条の宮へお帰りになるのである。

お迎えに兄君の兵部卿の宮がおいでになった。

はげしい風の中に雪も混じって散る日である。

すでに古御所《ふるごしょ》になろうとする

人少なさが感ぜられて静かな時に、

源氏の大将が中宮の御殿へ来て

院の御在世中の話を宮としていた。

前の庭の五葉が雪にしおれて下葉の枯れたのを見て、

蔭《かげ》ひろみ 頼みし松や 枯れにけん

下葉散り行く年の暮《くれ》かな

宮がこうお歌いになった時、それが傑作でもないが、

迫った実感は源氏を泣かせてしまった。

すっかり凍ってしまった池をながめながら源氏は、

さえわたる 池の鏡の さやけさに

見なれし影を 見ぬぞ悲しき

と言った。

これも思ったままを三十一字にしたもので、

源氏の作としては幼稚である。

命婦《おうみょうぶ》、

年暮れて 岩井の水も 氷とぢ 見し

人影の あせも行くかな

そのほかの女房の作は省略する。

 

🌔【源氏物語206 第十帖 賢木18】桐壺院が亡くなって右大臣の力が強くなり、宿直をしにくる人達の夜具もあまり見かけなくなった。

中宮の供奉《ぐぶ》を多数の高官がしたことなどは

院の御在世時代と少しも変わっていなかったが、

宮のお心持ちは寂しくて、 お帰りになった御実家が

かえって他家であるように思召されることによっても、

近年はお許しがなくて

御実家住まいがほとんどなかったことがおしのばれになった。

 

年が変わっても諒闇《りょうあん》の春は寂しかった。

源氏はことさら寂しくて家に引きこもって暮らした。

一月の官吏の更任期などには、

院の御代《みよ》はいうまでもないが その後もなお同じように

二条の院の門は 訪客の馬と車でうずまったのだったのに、

今年は目に見えてそうした来訪者の数が少なくなった。

宿直《とのい》をしに来る人たちの

夜具類を入れた袋もあまり見かけなくなった。

親しい家司《けいし》たちだけが

暢気に事務を取っているのを見ても、

主人である源氏は、

自家の勢力の消長と人々の信頼が

比例するものであることが思われておもしろくなかった。

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